ごきげんよう。ご訪問ありがとうございます。今回はとあるツイートを通して、〈自分軸〉について考えてみようと思います。
 
 

 

本編に入る前に、ツインレイの彼女(=片割れ)のやっているブログをご紹介させてください↓↓↓

 

 

 

 
ある日、ぽや〜んとTwitterのタイムラインを眺めていましたら、次のツイートが目に入りました。
 

 

ツイートは中島智さんという芸術を教える大学の先生によるもの。わたしは妙にこの文章が気になりました。気になったのは「意味レベルでやっている人」と「実存レベルで刺さってしまった人」と書かれている部分。この2つの言葉の違いが、妙に気になってしまったのです。

 

 

スピリチュアルの話をすると、スピリチュアルの世界では「自分軸で生きる」ことが大切なのだと語られます。この〈自分軸〉って何なんだ? ──と思う心根が、わたしが気になってしまった原因なのかもしれません。

 

 

自分軸で生きる。こうした言葉が力を持つようになるということは、その人が「自分軸で生きられていない現実」を知っているからでしょう。わたしが思うに、それは自分以外の誰かの思惑を忖度して行動している状況を言うのだと思います。

 

 

そう生きているほうがマシだから。そんな理由で生きている人がいるとしましょう。それに対して、どんな状況であろうと自分はこのように生きざるを得ない。そんな確信を持って生きている人がいます。上で紹介したツイートを踏まえると、前者が「意味レベルでやっている人」で後者が「実存レベルで刺さってしまった人」ってことになるんじゃないかと思います。

 

 

意味レベルというのは社会的な評価や人の目を気にした「レッテル」のようなものだと思います。実存レベルのほうは、個人の性分というか宿命というか、「ゆずれない価値観」に当たるものでしょう。

 

 

とりわけ注目したいのは「実存レベルで刺さってしまった人なら、無人島だろうがムショだろうが、描こうが描くまいが辞めようがない。」の箇所。

 

 

〈意味レベルでやっている人〉は趣味や仕事で自分のことをやる。しかしこれは無人島やムショでは続けられません。やらなくなったら・やれなくなったら、その人は〈やらない人〉なのです。これは「やらない人になることができる」という点で、やはり〈実存レベル〉とは一線を画しています。

 

 

〈実存レベルで刺さってしまった人〉でも事情は同じようですが、こちらはやろうがやるまいが、やれようがやれまいが、辞められない。おそらく、人が自分自身であることを辞められないのと同じです。自分は自分を辞められない。その〈自分〉に刺さっている。つまり、自分の本質になってしまっている。だから「辞める」ができない。これが〈実存レベルで刺さってしまった人〉なのだと思います。

 

 

「自分軸で生きる」とは何かということを考えてみると、実存レベルであれば、やろうがやるまいが、やれようがやれまいが、自分は自分なのだといった確信を持てるということに思うのです。逆から言うと、意味のレベルで「やる」ということは別の誰かとも交換可能な「別にあなたがやらなくてもいい仕事」になるのだと思います。

 

 

ここまで、「思う」「思います」「思うのです」という言葉を続けて使ってきましたが、これは意味レベルで実存レベルのことを語らざるを得ない以上、慎重になろうと考えてのこと。〈自分軸〉について語るのは難しい。下手に断言口調で語ろうとすれば、それは「他人の自分軸」に干渉してしまうのですもの。

 

 

 

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