本編に入る前に、ツインレイの彼女(=片割れ)のやっているブログをご紹介させてください↓↓↓
その中で、自分には安らげる故郷がないと述べました。どこに行っても自分の居場所はここじゃない……。そんな感覚がしてしまうのだと。これを「居所なき放浪者感」と呼んだのです。
片割れ(=ツインレイの彼女)との会話のなかでわたしが「居所なき放浪者感」という言い方をしたことはありません。でも、時の流れの岸辺でポツンとひとり流れの水面を見つめている、そんな自分がいることを伝えたことはあります。わたしはその〈自分〉を「ハイヤーセルフ」かと考えましたが、(後で説明する理由から)今ではそうじゃないんだろうなと思っています。
最近のことでした。片割れが、ふと〈さびしさ〉を漏らしたのは。
片割れは自分の感じている〈さびしさ〉を、癒されることを欲している「インナーチャイルド」の現れだと言いました。インナーチャイルドは癒しを欲し甘えたい子どものような「内なる自分」のことです。だから、インナーチャイルドが表れていることの自覚は、誰かが悪いと訴えているのではなく、自分自身を自愛する必要のある自分がいる、という気づきなのだと思います。
しかし、そう言って、頭ではわかっているものの、このときの片割れは自分が感じている〈さびしさ〉に呑まれそうになっていたのでした。
片割れは、自分は何も言わずに抱きしめてくれる男性を求めてきたのだ、とわたしに言いました。この発言はわたしが片割れの理想の男性ではなかったというふうにも聞こえます。その点でわたしは傷つく自分を感じたのですが、
それよりも興味深く思うのは、ツインレイ同士といえども、わたしが言う「居所なき放浪者感」や、片割れが言う「インナーチャイルド」は、一緒になれたことによってだけではその〈さびしさ〉が癒えるわけではないということです。
恋愛関係や夫婦関係にあってよく言われるように、お互いの不足を補うことが「一緒になる」ことの本体だという思想があります。スピリチュアルの世界で言われる「ソウルメイト」や「ツインレイ」といった、いわゆる「運命の人」ともなると、その思想がよりいっそう強く意識されてしまう向きもあるんじゃないでしょうか。
ですが、結局のところ、肝心なのはどうやら、〈自分〉らしい。
人任せにはできない、みたい。
考えればそうなのですが、その人の波動の状態によって目覚めを進めていく上で、自分の波動がどのようにあるかを自分以外の誰かに依存しているならば、それは「魂としての自分の目覚め」からは程遠いでしょう。
なので、
わたしの「居所なき放浪者感」も、片割れの「インナーチャイルド」も、それは「誰かに癒してもらう」ことで癒されるわけではないのですな。自分で癒えるようにならないと。
片割れの言葉にわたしは傷ついたと言いましたけれど、その気持ちに囚われるよりも、むしろ、わたしが創っている現実世界で片割れがわたしにとっての気づきとなることを言った。──そう思うほうが大きいので、この記事で紹介した片割れとのやりとりの後で、わたしは片割れに「あれはおもしろいと思った!」と話しかけたのでした(笑)
そしてそして、
わたしは自分が「居所なき放浪者感」と呼ぶ感覚が、片割れが言った「インナーチャイルド」と重なるんじゃないか、と思いました。
これはまだ仮説ですが、わたしの感じている〈さびしさ〉もまた、片割れが「何も言わずに抱きしめてくれる存在」によって癒されたかったのと、よく似た色をしているのかもしれないな。って、思ったのですよ。
インナーチャイルドについて知りたくなったわたしでございました。
今日のメッセージ
ここではわたしと片割れとが共作した
オリジナルのラブ短歌カードを1枚引き、
それをメッセージとしてリーディングします。
書かれている短歌はすべて
わたしから片割れに向けて書いた
ラブレターになっています。
なので、すべての短歌が
パートナーを愛する想いの詰まった
愛の波動の高いメッセージになっていると思います。
やわ肌のあつき血潮に触れもせば
きみ走らせる電流ながれむ
【リーディング】
やわらかい肌、あつい血潮。
触れてしまえば始まってしまうのは、
自分の内にほとばしる運命の力。
誰かの出会うあなた自身がそうもなり、
あなたの出会う誰かその人がそうもなる。
出会いの力を忘れるべからず。
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