稲川素子さんの訃報
柳川市出身
稲川素子さんが逝去されました。享年90歳でした。
素子さんは芸能事務所の社長として、

外国人を専門に扱うプロモーターの先駆けとして知られていました。

 

1934年、福岡県柳川市に生まれた。父は旧家出身で、若い頃にヨーロッパで何年も遊学できるほどの恵まれた環境で育ったという。実家は1万坪の敷地の中にテニスコートが2面あるほどの大きな屋敷で、別府にあった別荘にはグランドピアノが置かれていた。稲川はここで何不自由ない幼少期を過ごした。戦争が激しくなった頃この実家に疎開し、小学校6年生のときに終戦を迎えた。

戦後の農地改革で不在地主として土地を没収されると、家計が火の車に陥り、甚だしい食糧難と貧苦に見舞われた。サツマイモの蔓やカボチャの葉を食べて糊口を凌いだという。高校入学後は極度の栄養失調による貧血で入退院を繰り返し、体重は37kgにまで激減した。そんな稲川に救いの手を差し伸べてくれたのが、かの有名なダグラス・マッカーサーであった。高校2年生のとき教会の聖歌隊に参加し、礼拝に訪れていたマッカーサーが痩せ細った稲川を見兼ねて、ベーコンエッグをご馳走してくれたという。

女子聖学院高等部を卒業後、慶應義塾大学文学部に入学。19歳のときに受けた盲腸の手術で、麻酔注射の失敗により体の右半分が麻痺し、大学の中退を余儀なくされた。食糧事情も改善して徐々に健康を取り戻しつつあった22歳の頃、慶應義塾大学工学部卒で三井鉱山に勤務していた稲川長康と結婚した。その後妊娠し出産準備を進めていたが、逆子であることが判明したため医師から帝王切開を提案された。このとき、前述の麻酔ミスで一時的に半身不随となったトラウマが脳裏をよぎった。そのため、麻酔なしで帝王切開を敢行し無事娘を出産した。一人娘の佳奈子は、稲川と二人三脚でピアノの練習に打ち込み、現在はピアニストとして活躍している。

専業主婦を経て、51歳のとき、外国人タレント専門の芸能事務所「稲川素子事務所」を設立。前述の麻酔ミスでやむを得ず大学を中退したことをずっと後悔していた稲川は、65歳のとき、かつて通っていた慶應義塾大学文学部の通信教育課程に再入学し、ドイツ文学を専攻した。さらに72歳のときには、東京大学大学院総合文化研究科「人間の安全保障」プログラム(HSP)修士課程に3度目の挑戦で合格し、自らの職業を研究テーマに生かして国際社会科学を専攻した。博士課程ではステージ4の大腸がんと闘いながら博士論文「戦後日本の入国管理政策の変遷と課題」を書き上げ、82歳のときに博士号を取得した[4][5][6][7]。

2024年5月13日、心不全のため自宅で死去したことが、6月11日に娘の稲川佳奈子によって明らかになった。90歳没

 

 

 稲川素子事務所は、1985年4月17日に「有限会社稲川素子事務所」として設立。

1989年 株式会社に資格変更。 事務所は147ヵ国、5000人以上の外国人の登録を得、映画・テレビ他様々なメディアに紹介・派遣を行う事を主たる業務としています。 

テレビ各社、東宝・東映・松竹などの映画会社、広告代理店、CM製作会社、ラジオ局、官庁への業務対応業務対応も行っています。
20歳で半身麻痺という困難に直面しながらも、

稲川さんはその後の人生を力強く歩み続けました。

25歳でお子さんを出産され、30代から40代にかけては、長女と二人三脚でピアノ修行に励まれました。その努力は、親子の絆を深めるだけでなく、音楽への情熱をも育みました。

50歳で起業され、外国人タレント事務所を経営。多くの外国人タレントを支援し、日本のエンターテインメント業界に多大な貢献をされました。

70歳のときには東京大学大学院に入学され、学び続ける姿勢を示し、多くの人々に勇気と希望を与えました。

稲川素子さんの波乱万丈の人生と、その中で見せた不屈の精神は、私たちに大きな感動と教訓を残してくださいました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。