個性的なメンバーがそろったザ・スパイダース
個性的なメンバーがそろったザ・スパイダース
少年時代よりジャズやクラシックに親しんだ本城和治は根っからの洋楽派。日本ビクターに入社後は洋楽を編成する部署に配属され、ジャズ、ロック、フレンチポップスなどを担当した。そんな彼が邦楽制作を始めるきっかけがビートルズだ。

「彼らのアルバム『ラバー・ソウル』(1965年)の革新性に衝撃を受けて、自分でもそういう音楽を作って世界に発信したいと考えるようになったのです。ちょうどその頃に出会ったのがザ・スパイダースでした」


日本の音楽シーンは歌謡曲とカバーポップスしかなかったが、スパイダースは洋楽のセンスにあふれた音楽性と楽曲制作能力を有していた。メンバーは田邊昭知、かまやつひろし、加藤充、大野克夫、井上堯之、堺正章、井上順で、いずれものちに芸能界や音楽界で名を成していく。



「当時はインストバンドが主流でしたが、彼らのステージは歌にユニークな振りが付いていて、トークも楽しい。音楽性とエンターテインメント性が両立しているところが魅力でした」

 

本城にとって邦楽アーティスト第1号となったスパイダースは〝トーキョー・サウンド〟を標榜して欧米でもレコードを発売。日本では「ノー・ノー・ボーイ」(66年)で本格的なデビューを果たすが、しばらくヒットには恵まれなかった。そんな折、所属事務所のホリプロを通じてある楽曲が持ち込まれる。ヒットメーカーの浜口庫之助が作詞作曲した「夕陽が泣いている」だった。

「それまでとは異なる歌謡曲寄りの哀愁を帯びたメロディーでしたから、グループの曲をほとんど作っていたムッシュ(かまやつ)は抵抗があったと思います。私自身もデモの段階では違和感があったのですが、イントロでディストーションを効かせた井上堯之のギターとムッシュのつけたハーモニーで彼ららしいサウンドになりました」


66年9月に発売された「夕陽が泣いている」は欧州ツアーの間に60万枚を超える大ヒットを記録。帰国時は羽田空港にファンが詰めかける騒ぎとなった。日本語ロックの歴史はスパイダースから始まったといえるだろう。 (濱口英樹)



■本城和治(ほんじょう・まさはる)1939年生まれ。62年、日本ビクターに入社。洋楽ディレクターから邦楽の制作に転じ、ザ・スパイダース、ザ・テンプターズなど11のGSバンドのほか森山良子、尾崎紀世彦、大橋純子らを担当し、ヒット曲を量産。現在、濱口英樹氏が構成した制作回想記「また逢う日まで音楽プロデューサー本城和治の仕事録」(シンコーミュージック・エンタテイメント)と2枚組CD(ユニバーサル ミュージック)が好評発売中。