コラム 落語名演音源二八 



 十六席目

    五代目古今亭今輔「青空おばあさん」
    ユニバーサル・ミュージックより発売のCD「NHK落語名人選 29 古今亭今輔 ラーメン屋・青空おばあさん」(POCN-1029)

    
 昨年亡くなった三遊亭円丈を除き古典派が続きました。が、落語にはもちろん新作派も重要です。そもそもどんな落語も新作として現れた後、様々な演者によって多くの観客の耳で磨かれ、「古典落語」と呼ばれるようになったわけです。だから、本当は、「古典」だの「新作」だのとレッテルを貼るような狭い了見を捨てるべきなのでしょう。むろん、芸の軽重、深浅を意味するものではありえません。
 とはいえ、私もどうしても二分して説明する便宜を捨てられずにいるのですが。

 ではここで、落語芸術協会の本流に位置する新作の大看板・古今亭今輔師の一席を紹介。本流というのは、彼の弟子には、同じく新作派で長きに渡って芸術協会会長を務めた米丸や、最初に彼の門を叩きながら事情あって米丸門下に移った歌丸など、落語芸術協会の屋台骨を支えた噺家たちもいるからです。
 今輔はまた、「新作一代」とも言うべき、昭和後期ー平成の新作落語中興の祖となった三遊亭円丈が落語界に投じる際にも念頭にあったようです。それほど、「今輔」の名は大きかったのでしょう。ただ、円丈が今輔門を叩かなかったのは、「今輔ー金語楼」スタイルの新作は、すでに時代に遅れ始めたと考えたからだそうですが…。

 ここで挙げたCDには、今輔落語の代表作とされる「ラーメン屋」が収録されています。子宝に恵まれなかった老夫婦と行きずりの若者の情愛を描いて見事な噺ですが、湿っぽくなりすぎると嫌なので、ここではもう一つの「青空おばあさん」にします。
 五代今輔と言えば「おばあさん落語」と言われる存在。おばあさんを主役にした新作を大きな武器とする人。この噺でも、陽気で躁状態のおばあさんが、孫娘の連れてきた初対面のフィアンセの前で大声でエノケンの「私の青空」を歌い出す。困惑しきりの家族。…という話。
 この噺のようなおばあさんがいても、今なら恥ずかしいこともないだろう。むしろ、そのヴァイタリティを家族として誇りたくなるのではないでしょうか。煙たがる家族の方に共感されてこそ成り立つ噺なのでしょうが、そういう意味では決定的にもう古びた噺です。ここはむしろ、昇太さんのような現役の売れっ子で、この噺の「裏面」をしっかり焼いて、現代風な味になるように塩胡椒を振って、もう一度いい風味に仕上げてほしいと思います。
 本ネタだけでなく、「当世夫婦事情」というような長い長いマクラも、現代社会にあってはよっぽど保守反動的な人でなければ、いっさい笑えないでしょう。
 解説を書いている人は前向きに受け止めようとされていますが、「それは違うでしょう」と、二十世紀末の時点のものと知っていても、私は失笑してしまいました。こんな解説を読まされては、一般の人が落語を振り向かなくなるのも当然だ、と。現代は、一つの家庭にあって「男が偉いか女が偉いか」という意識ではなくて、「男/女」の二分法だけで全ての人を捉えることの硬直性を批判することにあるのですから。
 この噺自体はずっと以前に作られたものですから、その当時の価値観を「落語としてデフォルメ」したものだということを確認すればいいだけで、ことさら「人間」を説くようなフォローは逆効果に思います。

 では、なぜ私はこの噺を推すのか。
 理由は二つ。
 一つ目に、やはり今輔の「おばあさん」は迫力あるなあ、と思うから。
 今輔の声は金馬と並ぶ低音の美声。少し白々しいほどはっきりと、特に男性のキャラクターには話させます。ところが、おばあさんが出てきた途端、歯の衰えた感じをイメージしてでしょうか、少しこもったダミ声になります。その変わり方がとても分かりやすく、ついつい噴き出してしまうこと。
 二つ目に、「私の青空」を歌ってくれているから。自分で伴奏まで表現して歌ってくれて、最後におかあさん(おばあさんから見ると娘さん)が宥める声まで合いの手のように入れて歌ってくる嬉しさ。あの拍子を維持するのはけっこう難しいと思うのですが、難なくやり通してくれてます。
 このCDを聴いて以来、今輔師と言えば、「私の青空」が私の心の中で流れ始めます。

 本題のネタは短いので、マクラが異様に長いですが、このマクラが「今から六、七十年も前の落語」と思うと、いろいろ考えるところもありますよ。
 
             藤谷蓮次郎
                           二○二二年一月二十九日