リピート公開

Jビート エッセイ987の122

 年末・年始の佐野元春論(21-22)
  「佐野元春の変化 後編 夜」

  
「愛が分母」
   作詞・作曲 佐野元春


2022年3月2日 添付

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 ロックンローラー・佐野元春の「成熟(繰り返すが、未成熟に向けての)を示すもう一曲。
 ここ数年の佐野の曲としては抜群に楽しい、スカのリズムに腰から下をもって行かれそうになる「愛が分母」。
 風変わりなタイトルで、剽軽さも感じさせる。彼にしては珍しく、ユーモアを前面化しているようにすら思われる。このユーモアは、どこまでも陽気なスカのリズムが、誰もがいかめしく退屈な真面目さを強要されてきた小学校や中学校の教室の記憶に直接繋がる「分母」という言葉を乗せて展開するところにある。
 私は以前、佐野元春のリリックに「学校」の不在を指摘したことがある(現在、藤谷蓮次郎の「note」ブログに所収の「佐野元春論・大乗ロックンロールの言葉と自由」)。佐野元春は、日本のロックンローラーの中では例外的に、「学校」を取りあげない存在なのだ。その一法で、彼は、「みんなの先生」のイメージも持っている(以前、NHKのテレビ番組で佐野元春にインタビューした武田アナウンサーは、彼のことを「我々の世代にとっての先生」と言い、終始敬意を払っていた)。
 私は、この「愛が分母」は、このような「先生として佐野元春」像が、最も明確になった曲だと考えている。
 そして、そこには、「(学校に囚われない)先生」としての佐野元春のイマージュ(想像力)の「成熟」がもたらした豊かな関係性が見えるのだ。

「愛が分母」は、年若い「君」に対し、年長の人物の視点から歌われている。
「残酷なことばかり」の世の中で「君」を「守りたい」と彼は歌う。その思いは、常に語尾をあげる佐野の歌い方に結実し、いささかシニカル(皮肉)な意味をまといそうになる。だが、「愛が分母」と歌うサビ部分のコーラスがファルセット気味の高音も交え、シリアスな気分を吹き飛ばす明るいヴァイタリティを感じさせるので、シニックな性格は顕在化しない。
 ユーモラスでシリアス。複雑で単純。そんな素敵なサビを一緒に歌える仲間がいるとはなんて素敵なことだろう。
 また、そのホーンの音色の豊かさにも、聴く者の心はすっかり掴まれる。
 願いを含む関係性の突出。思いのたけを思い切り、明るく肉体的に表現する「祝祭」感が、東京スカパラダイスオーケストラのホーンによって、より明確に立ち現れるのだ。
 全てにおいて楽しい、慈愛で展開される剽軽さを打ち出した曲なのだ。

 この時、佐野元春の他者との関係性を表す言葉が、八十年代の彼の曲に比べて大きく変化している事実を見逃さないでいると、さらに深い慈愛を感じることを可能とする。それはほんの一瞬、我々の耳をかすめて消え去るのだが。

 ファースト・コーラスの二度目のAメロで繰り返されるフレーズ、「夜を越えて」だ。

 八十年代の佐野元春の世界観は、この「夜」に貫かれていた。いつのまにか街に溢れてくる彼のキャラクターたちが現れるのは、「夜」だった。
「アンジェリーナ」しかり、「悲しきレイディオ」しかり、「NIGHT LIFE」しかり、「HAPPY MAN」しかり。「HEART BEAT」と「ROCK AND ROLL NIGHT」の二大大曲などは、まさにこの想像力の全面展開だろう。私はこの傾向についても、前述の「佐野元春論」(「note」所収)で詳述している。
 しかし、この「夜」は、ニューヨーク滞在によってもたらされた「TONIGHT」と「Shadows Of The Street」のころから、変化し始める。
 都市に住む若者たちのストーリーをフィクショナルに描いた作者の視点からキャリアを開始した彼。だが、NY滞在のころから、現実に生きている佐野元春という一人の人物と、その周辺の人々の人生にモチーフを取り、個人的性格を抜け出て一曲として成り立つ象徴性を帯びるまで抽象化した世界観を作り出すように、彼は変化していく。そのようなアプローチの傑作が、私は「レイナ」だと思う(これについての文章は、「Jビート エッセイ987 藤谷蓮次郎のブログ」所収。また、MWSでも公開中)。
「レイナ」で描かれた「夜」は、跳ね回る楽しさを持った時間ではなく、それを過ごすことがひどく困難に感じ、誰かとともにいたいと考える時間帯となった。言い換えれば、心の傷や脆さが開いてしまう可能性があり、しかし、それを誰かに気遣ってもらうことが出きれば、先の人生をまた生き続けていけるような時間だ。
 変わったのは、「距離」を超える(「たどり着きたい!」ではなくて)ことではなく、その「距離」があるからこそ感じられる、自分を思いやってくれる相手の人生に感謝する姿勢が生まれたことだ。「レイナ」の人生は、話者と関わるその「夜」に決して大きく変わりはしないだろう。だが、すでに「TONIGHT」の「夜」をくぐり抜けてきた話者は、その変化しないことに対して、十分な価値を認めている。この「夜」に大きく何かが変わらなくても、二人の距離の良質さの確信が、お互いの人生を肯定的に歩かせるはずなのだと。

「愛が分母」で一瞬通り抜けていく「夜を越えて」というフレーズは、ロックンローラーとして四十年のキャリアを誇る佐野の現在の「夜」への想像力を素直に定着している。ここにある「夜」は、歌われている通りあっさりと「越え」られていて、そこには「夜」への過度ではない、適切な心配と配慮が描かれている。
 彼は、それが「心配な君」にとって重い時間だとは知っている。それをいたわり、思いやりつつも、「愛が分母なら大丈夫」さ。きっと君はそれを乗り越えられるよ、と微笑んで見守る。「夜を越え」た場所で、僕らは待っているよ、と。

 佐野元春は、「夜」に生き、「夜」を歌う所からキャリアを始め、今やそれも人生の一つの時間帯であることを知っている。彼の歌う「経験」とは、全ての喜怒哀楽や危機感や多幸感を、永く豊かで複雑な人生の時間に取り戻す視野を表す。
 このように、「夜」のイマージュの変遷を見ても、彼の「(未完成に向けての)成熟」が明らかなのだ。

 さて、私は最後に付け加えたい。この「愛が分母」こそ、佐野元春の「先生」としてのイメージが結実する一曲だと思う。
 というのも、この「距離感」。「君」を「心配」しながら、でも「大丈夫さ」という感じ。ここには、中学生から高校生くらいの十代の生徒達の行く末を心配する教員の不安と期待が、美しく表れている。
 どこかの学校の「三年生を送る会」か何かで、先生達が歌い、生徒さんとともに「セイ・イエー!」と叫んだりしたら、どれほど素敵だろう。もっとも、学校で生徒さんたちが大きな声を出してもよいことになってから、の話だが。

 二○二二年。
 そんな日々を夢みながら、いくつもの「夜」をそれぞれに越えていこう。
 そして、いつかまたみんなで(大人も子どもも、先生も生徒も)、一緒に大きな声で叫びましょう。
 セイ・イエィッ! 
 
                                              
                        藤谷 蓮次郎 

                                                2022年1月1日

再公開 3月3日