沢田研二・冷たく美しい「自分」への旅
序 ノンシャラン。あるいは自分という他者
(序の1つめのパート)
文章後につけた動画を前にあげました。(二つとも、2022年1月29日添付)
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(本文)
この社会で、自分らしく生きるには、どうしてこんなに遠回りしなければいけないのだろう。
昔、その男の目は、我々にそう問いかけていた。
美しい、とても美しい、しかしどこか冷たい目。
そして、今やその男の目は、だぶついた瞼の奥から自信ありげな光を放つ。「俺は俺であるだけだよ」と語りかける光を。
その男・沢田研二。
熱狂的な身体所作、陶酔的な表情、色気を含んだ歌声…。周囲の関心を惹く自らに対して、かつての彼の目は、いつも醒めていた。
森茉莉は、マスメディアでの活動を中心にしていたころの彼が行った対談を取りあげ、「俺莫迦だからなんにも考えないよ」という発言を彼の賢さだと評価していた(『ドッキリ・チャンネル』)。多くの芸能人を取りあげた件のエッセイの中で、彼女は沢田を最も肯定的に扱っている。「ノンシャラン(ずぼら)」という意のフランス語を、彼女の沢田研二評の足がかりにして。
他者の熱狂に対するノンシャランさ。それは彼が現在の容貌をまとうことまで自分に許す。にも関わらず、いまだに多くの人が、彼の活動に注目している。彼は、自らの意思が最も通りやすい形で、今、動いている。それにより、様々なメディアの発達によって、新たに彼に惹きつけられる人々も、昨今は、多く生まれてきている。
よく知られているように、以前の彼は、そのような自分が管理し得ないところに広がる「自分」像につなぎ止められることを、ひどく嫌っていた。しかし、今では、こうして他人の気を惹く自分に、あまり強くこだわることさえない。
かつてジャーナリストの玉村豊男は、彼を評して、周囲と自分を観察した上で、与えられた役割を「選びなおす人間」だと指摘した。(『我が名は、ジュリー』)。それは、『宗教的経験の諸相』のウィリアム・ジェイムズならば、「意志的=漸進的回心」と呼ぶタイプの信念を持つ人間で彼があることを表すように思える。
ノンシャランからの漸進的選択による「自分」の自覚へ。彼の人生は、老若男女を問わず、自分が「自分」ならざる者でしかあり得ないと感じている現代の人々にとって、大変に示唆的なのだ。
(明日の朝7時半公開の「序の2」に続く。)
12月22日(この文章公開の二日前)に公開した導入動画です。
(24日に添付)
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12月30日 解説動画二本添付
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