歌人・吉野秀雄論 

 

 Ⅱ―結 世界はさかさまに息づく(「母」と「子」の反復から)
    
 このように見てきて、『寒蝉集』の豊かさの拠ってくる構造性を、我々はやっと本質的に思考し得たと言えよう。それは、この歌人の想像力が多層的に爛熟を迎えた世界である。一つ目に、妻との関係性、二つ目に子どもたちの存在、三つ目に「(寒)蝉」。このイマージュの三つの一斉極限化。
 しかし、それならば、この作者の世界は、もはや衰退するばかりなのか。――我々は、これに明確な「否」を突きつける。この一冊の読者の多くは、「愛妻」を失うという悲劇を読みながら、むしろ励まされ、人生への意欲のような力を得ていくはずだ。だからこそ、普段は短歌など一顧だにしない、多くの読者に読まれ得た。それはまた、大衆好きのする、単なるメロドラマ的な感性によるものではない。短歌や文学に一定の批評眼を持っている人物たち(師の会津八一や、「畏友」小林秀雄を含む)が認めていることによっても、それは明らかである。
 ではなぜ、この爛熟の極限に達した歌集が、読者を励ます力を持っているのか。
 読者は我々がここまで、この集に含まれるもう一つの死について全く触れずに来たことを思い出すだろう。
 この一冊を始めさせたのは、たしかに「妻」の死だった。一方で、この歌集に完結した形を与えたのは、別の人物の死だ。その死は、「(寒)蝉」という記号に特権的な場所を与える役目も果たした。
 作者が「後記」に言う――「この集、妻の死を哭する歌によつてはじまり、母の病をうれへこれを葬ふ歌をもつてをはる、一は初秋他は中晩秋、いづれもその悲愁の日かず、秋蝉の喞蹟の韻きと分つことはできない」と。
 全てが妻への哀惜の情に塗り込められているように見える一集の中に、実はもう一度、「母の死」という別の絵の具が塗り加えられているのだ。作者は、それにより、この一集をまとめることを決意したとまで言っている。
 ならば、「母」の死を以て、いかなる力が与えられたのか。


  ふるさとの貫前(ぬきさき)の宮の守り札(ふだ)捧げて来つれあはれ老い母 (六十七)
  死(しに)近き母をこころに遠つ世の釈迦(さか)の御足跡(みあと)の石をしぞ擦(さす)れ (六十八)  
  こときれし母がみ手とり懐(ふところ)に温(ぬく)めまゐらす子なればわれは (六十九)
  堪へかてにわが敲(う)つ  のごんごんとこの世の母は焼けたまふなれ (七十)
  妻の骨けふ母のほねひと年にふたたびひらく暗き墓墳(はかあな) (七十一)


「たらちねの母」の後半にある(七十一)に明らかなように、生母を亡くしたことも、作者にとって大変な痛恨事だった。「墓墳」だけでなく、彼の心の中で、二人は並んでいる。「われ」の「妻」の病いに心を痛めてくれたことを伝える(六十七)から、回復を願う「われ」(六十八)の思い虚しく「母」もこの世を去るまでの、悲嘆の歌の数々。
 しかし、亡くなった母の体に精一杯の温みを届けようとする「われ」の姿(六十九)を見て、我々はこの光景がすでに見たもの、詠まれたものであることに気づく。Ⅱ―2の(四十六)で見た、「妻」の足をさする「をさなら」の姿である。それは偶然の一致ではない。一集全体において、「妻」を失った「をさなら」と、「母」を失った「われ」は、限りなく相似した印象を与えてくるのである。
「母」を失った悲しみに堪える者、その時間の過ごし方を、「われ」よりも早く「をさなら」は経験している。「母」を喪失した時間の反復。「をさなら」の姿こそ、「われ」の先行者であるという、通常の人間社会の認識とは逆の生き方をする世界がここに現前しているのだ。そして、このように誰かから影響を受け、真似て生き、教えられたことを素直に学び取ることができるというこの歌人の持つ美質を、すでに我々は確認してきた。
 夫が妻に頼り、親が子に教わり、季節外れの「蝉」が鮮やかに生を告げる世界。――このように逆転する世界こそ、『寒蝉集』の本質なのだ。だからこそ、「死」を歌って「生」が輝くのである。
 さかさまに輝く世界――いくつもの大きな終焉・喪失に囲まれた『寒蝉集』は、そうであるからこそ、むしろ新たな生命の胎動を告げているのだ。 

 

  (今週末の朝に公開の「Ⅲ」に続く。)