小説 「やあ! ブルース・ボーイ!」

 

2   (前半)
    
「嫌になってしまわれるようなことはありませんか?」
 促された通り私がソファーに座ると、校長はいきなり本題に切り込んだ。
 雨ばかり続いた数日。校長室も、蒸し暑い。湿気が限界を超え、壁に飾られた歴代の校長の写真も、濡れて光っているようだった。
 私はあの「嫌んなったぁ」の出所を思い出そうとしょっちゅう口ずさむあまり、校長や他の教員に心配をかけたのかもしれないと悟った。
 校長がいつも着ているグレーの背広が、小柄な彼の体の抜け殻のように、奧のイスに掛けられていた。おそらく、今日呼ばれた教員は、私で数人目。私の前の誰かの時に、脱いだのだろう。
「ストレス・チェックのことですか?」私は尋ねた。
 春に受けた職場の健康診断で、今年度からメンタルヘルス方面のストレス・チェックも始まった。一人一人がこれを受けるかどうかは任意だが、私は提出していた。二、三日前に、結果が届いた。これがかなり心配なものであることを、私は気にしていた。校長もそれを知っているのかと思った。
「結果は、他者には通知されませんので、安心して下さい。私も知りませんので」
「かえって心配を煽るようなことを言ってしまったかな」と私は後悔した。
「ただ、先日の先生の進路勉強会ですが、残念ながら数人の先生方しか集まらなかったそうで…」
 校長は困ったような笑顔を浮かべながら、時々私の目の奧を覗き込むような表情をした。
 昨年から、進路指導の研究会を、私が全教員に呼びかけて行っている。数ヶ月に一回。職員会議のない放課後。教員は任意参加。もちろん、教頭、校長の許可は取った。昨年は、キャリア教育の観点から『D・E・スーパーの生涯と理論』(図書文化)というテキストを使い、二回行った。今年は『格差社会の中の高校生』(勁草書房)という本で、一章ずつ読み進めていく予定だ。私の理想としては、私以外の先生方で一回ごとにレポーターを決めて進めたいのだが、今のところは誰も引きうけてくれない。しかたなく、私一人で進めている。もっとも、四十人ほどの本校専任教員のうち、この勉強会に参加してくれる人は、ほんの四、五人に過ぎない。私の下で進路指導の副主任となっている折橋さんという若い女性教員が毎回出席する以外は、他の教員は誘っても参加してくれない。
 そういう状況によって私の自尊心が傷ついているのではないかと、校長は気にしているらしかった。もちろん、全く気にしていないわけではないが、かつてある教員団体に所属し、すぐに離脱した私である以上、こういう教員側の反応は織り込み済みだった。
「まあ、飽きずにやり続けますよ」
 私は微笑んだ。校長も同調して、笑った。 
「市川先生、この学校へいらっしゃって、何年でしたっけ?」
「五年です」
「私より、二年早く赴任なさったのですね」
 校長は微笑んだ。彼は私が赴任してから三年目に、前任者と交代した。
「その時から、進路指導主事としてお迎えしたのですよね?」
「はい。さようでございます」
「どうです。お疲れじゃございませんか?」

 

  (「2」の後半に続く。 「2」の後半は、明後日の夜7時に公開します。)