小説 「やあ! ブルース・ボーイ!」

 

1  (後半)

 

 そのころ、約三年の間、母と兄と離れて父方の祖父母と生活していたことを、私はまだ彼女に言っていなかった。結婚して十年。なぜか不安定になった思春期の兄と私の関係を落ち着けるために私だけが東京に暮らしていた時期があることは、言ってはいけないことのような気がしていたのだ。「ユウさん家のお母さんとお兄さんとユウさんの三人は、ホントに仲がいいんだね」と目を輝かせて冷やかしてくる彼女だから。
「こっちがそのくらいのころ、兄貴は高校生でさ。すげえイライラしてて。とにかく、何かにつけて俺に怒鳴り散らしたり、手をあげたり…」
「あの優しい、今でも弟の悠次くんが可愛くて仕方ないという雰囲気いっぱいのお兄さんが?」
「俺が可愛いという思いと俺に対して腹が立つ思いは、たぶん同じものだったんだろうね…。とにかく、すぐ嫌な思いさせられるから、その当時は、なるべく兄貴の顔は見ないようにしてた。ご飯も、なんだかんだ言って、時間をずらして食べてたくらいだった」
「お母さん、大変だったでしょうねぇ…」
 妻の言葉で、母子家庭を一人で支え続けた母の苦労を思った。そんな苦労のため、六人姉妹で最初に、六十代半ばの若さで彼女は亡くなったのかもしれなかった。
「俺が大学に行って、お袋と兄貴だけが田舎に残ってからが、氷が溶け出した感じ。俺たちがお互いの目を見て、普通に会話できるようになったのは」
 そのころ、母の愛情に対するそれぞれの領域が、暗黙の合意に達したのかもしれない。
「兄弟に歴史ありだね。私は、お父さんが亡くなった後、お兄さんがずっとずっとユウさんを大事に可愛がって、ユウさんもお兄さんのことが大好きなまま来たのかと思ってた」
 私は何も答えず、微笑んだ。やはり今は言うべきではないことがあるのだと思った。
 それから視線を逸らして、言った。
「それにしても、嫌になっちゃうな、忙しくて」
 私は突然、「嫌んなった もうダメさぁ」で始まる歌を思い出した。歌詞もメロディーもそこまでしか出てこなかったが、たしかにこれは、昔よく歌っていたものだ。
「誰の歌だっけな…」
 私は携帯で調べようとして、すぐやめた。自力で思い出してみようと思ったのだった。 

 

 (「2」に続く。 「2」は、明後日の夜7時に公開します。)