RCサクセションのゲンソウ 

 

教室の隅で無口に座っていた君は、今はどこにでもいて、誰かのためにケッサクなマンガを描く

 

 

  Ⅱ ブルーズとロック。二つの中心


「フォーク」や「ロック」の底には、「ブルーズ」がある。それは大衆音楽のジャンルではない。誰かの心が他の誰かの心と共鳴する力だ。君はたぶん、そう思っていた。この世界に生きている君たち自身の生の独自性。その現れである曲を、リスナーが聴こうと欲する。その全ての過程が噛み合った音楽のプレーヤーとして、君たちは動いていたかった。後から一人のメンバー(破廉ケンチ)が脱退していったことを考えれば、君たち三人全員が同じ志向だったのではないのかもしれない。でも、少なくても君にとって、ギターが「フォーク」か「エレキ」か、他にドラムやパーカッション、キーボード、シンセサイザー、ブラス・セクションがあるかどうかは、本質的な問題ではなかった。だって君は、カントリー、デルタ、シカゴなどと呼ばれる「ブルーズ」の歴史を知っていたから。
 君が実現したかったのは、愛するオーティス・レディングの「ドック・オブ・ザ・ベイ」に込められた世界観だ。
  ジョージア州の家を出て/サンフランシスコ湾に向かった/生  き甲斐ってもんが全然なかったからさ/だけどこれからも人生  何も起こりそうにない
       "(SITTIN' ON) THE DOCK OF THE BAY"  訳・沼崎敦子
 今まで何もない人生だったけど、これからも何も起きそうもない。――ここには、「悪い予感のかけらもないさ」と歌う、君の「スローバラード」と同じ質感がある。「ビッグ・O」の曲には、サンフランシスコの港湾の夜明けが描かれ、君の「スローバラード」には日本の郊外の市営グラウンドの夜更けが描かれている。しかし、二曲とも、例のタールのような粘り気がある。二曲を絵に喩えれば、描かれる景色も色彩も違うが、醸し出す空気(アトモスフェア)が同じ。フランスのある小説家は、習作時代に、先行する作家たちの文体を意識的に真似た『模作』を行ったそうだ。彼は、作家にとって文体は技術の問題ではなくヴィジョンの問題だと考えて、あえて意識的に他者を真似たという。不遇時代の「失われた時」に聴き込んだという「ビッグ・O」と君の類似は、ヴィジョンの同一性と言っていいだろう。歌詞やメロディーや演奏の全てを捧げて創られる世界観そのものの同一性。
 人々がみんな、自分の人生を前向きに生き、希望を持ち続け、夢を叶え、愛と優しさに満ちた生活を送ることを目指したはずの近代社会。しかし、そこにはもう一つの側面がある。夢見た人のほとんどが挫折し、全く変わり映えのしない人生を、あくせく働いて過ごす。何も起こらなかったし、この先もなにも起こりそうもない。そう思って、いつのまにか死んでいく……。「悪い予感なんて全然ない」と嘯くことが、自分に出来る精一杯の負け惜しみ。それは近代社会の裏地だ。けれど、困ったことに、その裏地の方が表の布地よりもずっと分厚く複雑で魅力的に出来ていることに、君は気づいてしまった。恋を歌っても、君のヴィジョンは、多くの人に「恋ってそうだよね」と感じてもらうところにはなかった。それでは「カヨウキョク(歌謡曲)」になってしまう。君が「カヨウキョク(歌謡曲)」に嫌悪感を表明し続けたのは、それが君の歌の生命力を、人の心と「カヨウ(通う)」ことだけに置き直すからだろう。一人の人間の心がすっかり誰かと通い合うなんて、変だ。その「カヨウ(通う)もの(誰にでも見える服の表面)」からこぼれ落ちるもので編まれた「カヨワナイ感性(その裏地)」も含めて、君のヴィジョンはあった。
 

   (Ⅱ章の二つ目のパートに続く。 二つ目のパートは、明日の朝7時半に公開します。)