やあ、ブルース・ボーイ!

 

ある卒業生の手紙から

 

 1
 

 長い間一人の生徒が、僕の頭に棲みついていた。
 それは、ゴールデンウィークごろ、勤務先の高校に届いた一通の封書から始まった。「進路指導部長 市川悠次先生」という宛名で。差出人の名前はなかった。
 便せん三枚もの手紙だった。蟻のような細かい文字が、全く改行なく綴られていた。書いた人物が読む人間のことを考えられない状況にあることが、一見して分かった。僕は白アリの駆除か熊ん蜂の巣の撤去をする気分で、それを読んだ。
 胸の中に数十羽のカラスが鳴き出すような騒ぎを覚えながら、「嫌になったんです。なんとなく」から始まる手紙を読んだ。経験上、生徒が出してくるこういう手紙は、何を言っているのか分からず、ただ苛立ちだけが伝わってくることが多かった。それは豆腐の中に隠されたコインのようなものだった。傷がついているから、何かが入っているのは分かる。けれど、外の部分をぐちゃぐちゃに取り除かないと、それがなんなのかは、分からない。この手紙も、意図が不鮮明なまま何度も入り込んでくる自己卑下がうるさく、全体をくどい印象にしていた。
 とはいえ、なんとなく外形的なものは分かった。汲み上げ豆腐程度の混乱で。伝達性は高いとは言えないが、上出来だったと言っていい。僕が理解したいくつかのことを並べると、こうだ。ーーこの差出人が本校の卒業生であること。一流と言われる国立大学に現役で入った学生であること。彼が志望校に合格した時、家族や友人、そして本校の教員たちが大変に喜んだこと。そのわりに、進路指導の責任者である私が、いつもと変わりない表情で「おめでとう。大学に入っても、しっかり勉強するんだよ」と言うだけだったのが意外に思えたこと。…などが、読み取れた。そして、大学に入った後、勉学や人間関係でうまくいかないことをいくつも経験して、いま、大学を休学すべきか迷っていることも分かった。
 読み進むうちに私は、この差出人が二年前に地元の旧帝国大学に合格した男子生徒だと分かった。当然わかるはずだった。私が勤める高校から、ノーベル賞受賞者を教授に持つその大学に入学した生徒は、歴代たった一人なのだから。それは、本校創立以来の悲願であり、快挙だった。賢い生徒を集めるためにあるのではない公立普通高校の本校だから、本人だけでなく、職員室の教員団も大変にはしゃいだ。担任教員などは、数日に渡って、まさに「肩で風を切る」というありさまだった。
 まぁったく、しょうもない現実だ。
 私はそれを見て、強烈な違和感を感じた。それで彼が、「ぼくがすごく喜んでいるのを見て、先生は不満そうでした」という態度になっただろう。もっとも、彼がそんなに私の態度を気にしているとは気づかなかったが。
 とにかく私は、彼とすぐに連絡を取りたかった。だが、名前がない以上、卒業生の住所録を勝手に開くわけにもいかない。心配ではあるが、誰の目から見ても住所録を開くのが妥当なほどの緊急事態だとも言い切れなかった。

 

    (「ある卒業生の手紙から」 の 2 に続く。 続きは、明後日の19時に公開です。)