J=ビート エッセイ987 ⑫
 
ウィークリー・テーマ 失恋の寄り添い人
   
失恋の底打ち価値・山崎まさよし「One more time, One more chance」

なくした恋や愛を言葉にし、音楽にすることが、多くの人に歓迎されることがある。なぜだろう? 失恋を作品化した言葉には、優しい寄り添い人でも降りてくるのだろうか。

 山崎まさよしの「One more time, One more chance」(1997年)を聴いていると、怖くなる時がある。若い作り手にしか不可能なような、ひどく真っ直ぐな手触りで、失恋が歌われているからだ。その喪失はあまりにも強く、何度も掘り下げられるために、一般的な失恋ではなく、「君」の生命自体が失われたような印象を与える。
 もちろん、作った側の意図や創作の動機・状況などとは関係なく、1つの曲は曲としての世界観で解釈されればいい。作品の奥深く、感情的に大きく盛り上がった部分にある「夏の思い出がまわる/不意に消えた鼓動」という言葉があることで、それが「死」を意味するのではないかと捉える聴き手がいるのも当然だろう。

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「One more time, one more chance」は、失った関係性の復活を願う心を歌っている。歌詞の全てが痛切なまでにそこに中心化している。大きく、痛々しい喪失感が、強迫的な存在となって、歌を満たしきる。「強迫的」とは、ある存在によって、他の存在を押し隠してしまうような様態を指す。
 例えば、何らかの感染症が手指を伝わって体内に取り込まれることに「強迫的」に拘った場合、人は何度も何度も手指を消毒し、流水で洗うことだろう。この行為によって本人が社会生活上の困難を自覚した場合、精神医学的な助力が必要となる場合もある。しかし、この「手を洗う」という行動によって、それ以外のストレスに直面することを避けるという働きもあり得る。現代の行動分析学の知見から言えば、一見、問題行動と思われることにも、「メリット」があり得る。言い換えれば、人間は、本当に何の利益もないことを繰り返すようには出来ていない。近年では行動経済学が、この点にどんどん切り込んでいる。
 この曲は、あまりにも痛い。だが、昨今の人の心の研究に従えば、この痛さが、聴く者の感情を前向きに変えてしまうことがあり得る。以前ならば、それは自らの不利益な感情の「カタルシス」行為として理解されただろう。しかし、なくした恋の強迫的な喪失感を掘り下げることで、「新しい朝/これからの僕」を「君に見せたい」とする「新たな日々」の始まりへの自信が明確に口にされていることは見逃せない。失恋体験の強迫的な存在感に囚われることで、「現在の・これからの自分」はそうではないということが、言い切れているわけだ。
 なぜ、こんなに歯切れ良く言い切れているのか? 
 それこそ、この失恋体験が「強迫的だからこそ」持つ価値だ。
 これほど、自分は辛い思いを持った。それは、どこにいても彼女の存在を探してしまうような、妄執とも言うべき思いを生んだ。だが、「僕」は、その妄執があるからこそ、彼女との関わりが二度と戻らない事実に繰り返し直面させられる。
 この思いに、解決はない。どうやっても、「君」は帰ってこない。だから、この強迫的な思いはそれ自体としての「応答」を持ち得ない。つまり、「僕」はこの失恋体験のツラさをかみしめるしか出来ない。そこで彼の心は、これ以上の「ツラさ」はないという思いを強くする。いわゆる「底うち」体験が、ここに到来する。
 この歌は、強迫的な失恋を歌うことで、「底打ち」体験まで至らせる。それにより、聴く者の心に重要な転機を訪れさせる。
 歌の中では、繰り返しそのツラさが強調されている。が、一方で、それに隠れて、「新しい朝/これからの僕」のくだりが、今後の生活を肯定している。同時に、最も強迫的な心はそれ自体に填まり込むが、この失恋は「歌われるもの」であることで、歌の中の感情の外側に、聴く者を導く。

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「失恋に強迫的に支配されること」と、「失恋に強迫的に支配されることを歌うこと」は違う。
 この曲の寄り添い人は、「失恋」体験に救いを与える働きはしていない。ただ、「失恋体験」の痛みを徹底させることで、その底に穴を開けてみせる。
   
                            藤谷蓮次郎   二○二一年二月二日