リピート公開


Jビート エッセイ987の№5 (No.4より先に公開)

 

沢田研二の矜持・ヴォーカリストからシンガーへの変貌

                (沢田研二論のスケッチ1として)

  2022年2月13日に追加。

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 彼個人のヴォーカルの変遷を知るべく、ザ・タイガースから彼個人までのシングルを集めたベスト盤CDの何枚かを聴き直す。すると、タイガース再結成後の「十年ロマンス」(1981年)「色つきの女でいてくれよ」(1982年)にいたって、彼のヴォーカルが別人のように進化しているのに気付く。
 もう一人のヴォーカル・加橋かつみ(トッポ)が、以前のシングルと変わらぬハイトーンヴォイスであるのに対し、沢田は、太く、艶があり、説得力のある音程を保つ。二曲とも、ソロ・パートのメインは加橋なのだが、沢田は僅かなソロでも、そのヴォーカルで堂々と一曲を引っぱっていく。昭和40年代、GSブーム最高のアイドル・バンドだったタイガースのころの曲、例えば、デビュー曲の「僕のマリー」(1967年)。また、大ヒット曲「シーサイドバウンド」(同年)、「君だけに愛を」(1968年)、「シー・シー・シー」(同年)などで聴く沢田のヴォーカルは、甘いというよりはタルく、歌詞の歯切れも非常に悪い。音程も曖昧なまま。作曲家であり、タイガースの曲想を決定するリーダーだったすぎやまこういち。彼の明確なイメージ戦略に乗った彼らは、間違いなく、バンドの形態をとったアイドルだった(※1)。GSアイドル期のレコーディングも、実はヴォーカルとコーラス以外はスタジオミュージシャンを起用して行われた(※2)し、再結成期の曲も、彼ら自身の演奏ではなかった(※3)。しかし、沢田研二だけは、再結成時には他のメンバーを置いて、全く違った実力派ヴォーカリストとなっている。

 ※※ 磯前順一さんのザ・タイガースについての本を紹介する動画です。

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  (2022年2月5日追加)

 明らかに彼は、ヴォーカリストとして上手くなったのだ。スージー鈴木は、同じくヴェルヴェット・ヴォイスの系列に挙げられるヴォーカリストとして、藤井フミヤと沢田を挙げる。そして二人の違いを言う。フミヤは、デビュー-時から十分な実力を備えたヴォーカリストだったが、沢田は、途中から上手くなったヴォーカリストだと(※4)。タイガースからのシングルを聴いていく限りにおいて、私も彼に賛成する。沢田研二という存在は、いつの時点かで、大きくヴォーカリストとして成長している。
 繰り返しスージー鈴木を援用すれば、彼は『1984年の歌謡曲』(イースト新書)の中で、『GS ILOVE YOU』のころ、1980年代前半の沢田研二を、「クレージーな若者」(まだメジャー・シーンの中で受容されていなかった佐野元春、伊藤銀次、大沢誉志幸)を受け入れ、彼らとのコラボレーションを通して自らの魅力を刷新するその柔軟性を賞賛している。私が思うには、沢田のヴォーカリストとしての自信が、このような「異人たち」を受け入れることになったのではないだろうか。それはまた、ザ・タイガースの復活という企画を受け入れる寛容さをも、彼に与えたのだろう。
 グループの中の「ヴォーカリスト」から、たった一人でステージの全てを引き受ける「シンガー」への変容。――沢田研二という多様な才能(俳優であり、テレビ・タレントであり、コメディアンでもあり得る)を持つ存在の核心に、私はそれを見る。
 とすれば、彼の「ヴォーカリスト→シンガー」の飛躍があったのは、いつと考えられるのか。

    ※1 磯前順一 『ザ・タイガース 世界はボクらを待っていた』(集英社新書)
    ※2 ※1と同書。
    ※3 沢田研二 『我が名は、ジュリー』(玉村豊男・編。中公文庫) 176頁の本人の発言。
    ※4 スージー鈴木 『サザンオールスターズ 1978―1985』(新潮新書)。
    鈴木は、途中から上手くなったヴォーカリストとして、桑田佳祐の名も挙げている。
    

   (「3」に続く。)

     

  藤谷蓮次郎

   2021年1月11日

   再公開 2022年2月5日