ご訪問ありがとうございます
今日は、私が仕事で訪問させていただいている、ある一件のお宅のお話です。
S様は70代の女性で、夫と二人暮らし
アルツハイマー型認知症の方です。
息子様は、たまに来訪される程度で介護の援助はなく、夫が一人で介護をされています。
認知症が進み、最近は日常生活のほとんどの行動を一つずつ指示してあげないと出来なくなりました。
例えば、歯磨きも
「はい、歯ブラシをもちましょう」
「少し水で濡らして下さい」
「歯磨き粉をつけてください。歯磨き粉はここですよ」
「磨けましたが?もう少し、こっちの方も磨きましょうか」
「うがいをしましょう。コップはここです」
お風呂も、着替えも、このように一つずつ次の動作を伝えないと、次に何をすればよいのか分からなくなってしまうのです。
排泄は、オムツを使用。
会話は成り立たず、話かけるとトンチンカンな返事が返ってきます。
そして一日中、同じことを何回も繰り返し話します。
きりがないのでこの辺にしますが、こんな生活が続いたらどうでしょうか?
訪問看護とヘルパーが週に4日、デイサービスには週に1日通っていますが、そんなのは365日24時間のうちの、ほんのわずかな時間でしかありませんよね。
時々報道される、介護殺人のニュースに心が痛みますが、介護している方は精神的にも肉体的にも追い込まれてしまいがちです。
だから、介護される側だけでなく、介護する側にも身体的、精神的に介入が必要な状態じゃないかな?って、私たちはアンテナ立てて訪問しているんですよ
でも、このSさんの夫は、いつも明るく、楽しそうなんです
ピンポーン
ガチャと玄関のドアが開き、笑顔のSさんの夫が顔を出して、
「おはようございまーす。
いやー、朝から参りましたよ。
トイレにトイレットペーパー 1ロールくらい流そうとして、床が廊下まで水浸し。
今、掻き出して、 ようやく掃除が終わったところです」
…いやいやいや
朝から(朝じゃなくても)、こんなことされたら、キレませんか?萎えませんか?
Sさんの夫は、何事もなかったかのようにひょうひょうとしています。
いつもこんな感じなので、ある日尋ねてみました。
「奥様の介護をされている旦那様は他にもいらっしゃるんですけど、みんな、身体的な介護の負担より、認知症で意思の疎通ができなくなることが受け入れられなくて、つい怒鳴ってしまったりするんですよね。」
すると、Sさんの夫は、きょとんとした表情をした後、こんな風にお話されました。
「怒鳴ったって、この人(Sさん)、 何言われてるのか、分かんないしね。
始まりはさ、恋愛だとか、見合いだとか色々だろうけど、どっちにしろ、縁あって結婚したんだ。
どっちかが、駄目になったら、片方が助けてやるのは当たり前だと思うし。
それにね、変なこと言うと思うかもしれないけど、私ね、この人(Sさん)に話しする時、普通の人だと思って話してるんだ。
ぼけちゃってるのは分かってるけど、普通の自分の奥さんだと思って話しかけてるんだよ。」
神か?
話が深すぎて、人間の器がでかすぎて、ゾワゾワ~って鳥肌立ちました。
もう一つ、Sさんの夫のすごいところは、毎日楽しみを見つけて過ごしているところ。
先日は、Sさんの敷きパットが、 頻回な洗濯で角のゴムが伸びてしまいました。
その伸びたゴムを切って、ゴムだとまた伸びるので、バイアステープを縫い付けていました。
バイアステープの端はライターであぶってほつれ止めし、ミシンで縫いつけています。
ミシンで縫うのも、上手くいかないとほどいてやり直し、やり方を変えて、上手くいく方法を試行錯誤
更に、バイアステープの中に入っていた厚紙を加工して、素敵な栞を作っていました
こういう日々の繕い物、料理、洗濯、掃除、日々の記録など、どんなことでも手をかけ、試行錯誤することがとても楽しいのだとか。
そのお話を聞きながら、私の脳裏に浮かんだのは、吉田松陰が野山獄の中で書いたこの文章でした。
楽しみの人に於ける、在らざる所なし。
山楽しむべく、水楽しむべし、
居楽しむべく、行楽しむべし。
富楽しむべく、貧楽しむべし。
生楽しむべく、死楽しむべし。
人が楽しむことは、どこでだってできる。
山でも、海や川でも楽しむことはできる。
住んでいるときも、旅をしているときも楽しむことはできる。
富んでいるときにも、貧しい時も楽しむことはできる。
生きているときも、死んでさえ楽しむことはできる。
自分のいる状況がどうあれ、自分の心次第で楽しみは見つけられる、
サウイフモノニ
ワタシモ
ナリタイ
と、宮沢賢治のように締めくくって今日はおしまい
今日もお読みいただき、
ありがとうございました