花粉症は年々改善の兆しをみせておりましたがさすがに今年はやばそうな、柏木です。
さて、久々に長いのいきます。
花粉の飛散量と同様、人生の中で霊感の感度も変わるもの。
霊感そのものは誰しもが持っている感覚ですがその強弱には差があるのです。私の霊感もみなさんと同じ様に持って生まれたものですが、爆発的な広がりを持ち始めたのは22~23歳頃です。
10歳で今のガイドと出会い契約に至った(…平たく言えば騙された感が否めませんが)のですが、その役目を始める様になるまでには更に10年以上の期間が空いています。
ちなみに、10歳になるまでは相当に能書きの多い(今でもあまり変わりませんが)こどもでした。
とにかく物事が理路整然としていなければ納得せず、理不尽な仲間はずれ(順番に廻ってくるヤツです)に滅入ることも、悲観することもない可愛げのないこどもであったのは間違いありせん。大人の「○○とはそういうものだ」という釈然としない誤魔化しが大嫌いでもありました。
この辺り、大人になった現在でも変わることはありません。
上司だろうが偉い人だろうが『原因が明確でないもの』には強い抵抗感があるのです。この世界には因果があるものですが、理が明らかでない物は単純に「気持ちが悪い」のです。
こどもの頃は単純な興味でしかなかったものが大人になり『自分を納得させる材料』に変わったのは違いかもしれません。
例えば、上司の理不尽な要求に潜むものが何でも構わないのです。「更に上からの命令で従わざるを得ない」でも「他からの強い圧力に屈した」「俺がそうしたい気分なんだ」でもいいです。
そんなくらだらない原因でも動かざるを得ない関係であれば、無闇矢鱈と正義感を振りかざす必要はありません。
仏語で因果は
>前に行った善悪の行為が、それに対応した結果となって現れるとする考え。特に、前世あるいは過去の悪業(あくごう)の報いとして現在の不幸があるとする考え。
と説かれています。
霊感の弱かった時代から強く持つ今までを振り返り、自分の体験も考慮すると『概ね賛同』できます。善悪それぞれに原因ともたらされる結果があります。ただし、それは単純な構図ではなく実に複雑なのです。
最初の動機や原因はどうであれ。
気に入らない結果を目の当たりしたとき、人は自分に都合良く話をねつ造したがるものです。それはそもそもの原因が不純であったり、浅はかであったり、恥ずかしいものであったりと様々ですが、因果とは点と点を結ぶ一直線では構成されていないのです。表の反対は裏とは限らず、光の反対が闇とも限りません。
自分の行いがいつ報われるのか、どのような結果となって現れるのか、周りからは予想がつきません。仮に霊障ひとつ取っても、病気という苦しみの結果なのか、まだ結果は出ず更なる苦難に向かう途中なのか。
しかし、強い呪詛も長い年月を掛け、求める結果に変化が現れるのを私は何度も体験しています。
これまで関わって来た魂は皆一様に呪いを捨て、光を求めて本来の場所へ戻ることを選択するのです。因の生まれた時は被害者でも途中から果を求めて加害者になり、最後は因すら悠々と乗り越えてしまうのです。
始まりと成る因は誰かから与えられても、応えと成る果は自分で決めることができるのです。
貴方が今「不幸」だと感じても絶望も悲観もそれは一時。貴方の望む幸せは貴方が選ぶものなのです。
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