本当は始まりなのかもしれない | 蜜蜂と銃 〜タロットと数の言霊〜

蜜蜂と銃 〜タロットと数の言霊〜

あの世とこの世と数とタロット占い。

昨日の全てを黄色に染める夕焼けで『世界の始まりのような終わりのような』そんな気持ちがよぎりました。

半世紀ぶり爆発的噴火の霧島連山の新燃岳、鳥インフルエンザの猛威、と経済的にも精神的にも不安と打撃を間近に受けていらっしゃる方のご苦労を考えると、居たたまれぬ思いです。
どうか心折れずに乗り越えて頂きたいと願っております。

「…世界の終わりのような」と言っても、私は決して『終末論者』ではありません。

人は理想の実現のために考え、行動しなければ成らないと考えています。目的は『湧きあがる笑顔』であり、正義や倫理はその結果の一つに過ぎないものです。窮極的正義を追求するだけでは達成しえないことであり、普遍的な倫理感でもカバーしきれません。もっと相対的で個を大切に考え、個が全を成す真理を知ることで辿りつく場所なのだろうと思うのです。

タロット【08:JUSTICE 正義】も絶対的な正義ではなく相対的な正義だと解釈しています。

$蜜蜂と銃-justice

そもそも絶対的な正義はまだ存在し得ません。時代や国、地域や民族で行われる正義は普遍的な正義なのです。神は絶対的正義と称される場合もありますが、私は賛同できません。神が唯一の正義でありその執行者ならば、この世に悲しい事件など起こるはずがないのですから。神もまだ不完全なのです。

正義は相対的に判断され執行されてこそ、その意味を発揮するのです。

たった一人が世界を変えることなどできませんが、身近な誰かに影響を与えることができるかもしれません。社会の一員だから社会のルールに沿って生きるのではありません。私達が正しさを求め行動し生活する様が『社会』と呼ばれているです。「自分一人くらいいいだろう」という自分本意な振る舞いはいずれ社会を乱し、自分の首を絞める結果となるのです。

火の時代は過ぎ去り水の時代へと移り変わつつあります。
それは急激な変化ではなく、じわじわと置き換わるようなイメージです。一部では2012年の終末論が真しやかに囁かれていますが、地球や人類の滅亡は起きません。

終末論的な『淘汰再生』ではなく、私たち魂の『回帰蘇生』が起こり始めているのです。
これまで大事に扱われずおざなりにされてきたこと、すっかり忘れていた宝物を再び見つけるような、そんな感動があるのだと思うのです。

魂が諦めない限り何度でも挑戦しても構わないのです。

≫人気ブログランキングに参戦中。へぇ~っ柏木やるじゃん!と思ったらポチッと♪
人気ブログランキングへ