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Rendez-vous Theater

 【2025 - No.38】~ 9月公開「タンゴの後で」関連 ~
ラストタンゴ・イン・パリイタリア・フランス 129分 1972年

(Photo: via IMDb)


昨年度カンヌ映画祭へ出品、来月日本公開予定の「タンゴの後で」は、70年代に大胆な性愛描写で波紋を呼んだベルナルド・ベルトルッチ監督作品「ラストタンゴ・イン・パリ」のヒロイン役マリア・シュナイダーに焦点を当て、あの撮影現場で起きた一件に迫ったものだ。これまで「ラストタンゴ・イン・パリ」の持つ芸術性の高さに魅了され何度となく目を通してきた私は主演のマーロン・ブランドのみならず相手役を務めたマリアに対しても格別な思い入れがあり、今回「タンゴの後で」鑑賞前のおさらいに改めてこの世紀の問題作を取り上げることにした(記事内一部結末に触れています)



  バタイユとベーコン

死とエロスが主な思想テーマのジョルジュ・バタイユに影響を受けたベルトルッチが手掛ける「ラストタンゴ・イン・パリ」の根底にはバタイユの短編小説(恐らく主人公がひとりの娼婦に神性を見出す「マダム・エドワルダ」だろう)がある。更にパリで開催の画家フランシス・ベーコン大回顧展(注1)においてベルトルッチの目を引いた二枚の絵画が着火点となり中年男と若い女がアパルトマンの一室で互いの素性を明かさぬまま密会を重ねて交わり破綻するまでの三日間を描く基本的なストーリーラインは構想された(オープニングクレジットに登場するこのふたつの肖像画は映画のあらゆる場面でのメタファーとして重要な役割を担う)またベルトルッチはベーコンがキャンバスに表現した色彩感覚を吸収するためにカメラマンのヴィットリオ・ストラーロを始め美術関係のスタッフを連れて足繫く展覧会へ通いフィルムにそれを再現しようと試みた。本作が公開された際に赤裸々なシーンを巡り「芸術かポルノか」で物議を醸したと聞くが、その議論自体が如何に馬鹿馬鹿しいものかはこうした作品背景を念頭に置けばすぐに分かる。どこを切り取ってもアートでしかないのだ


(L) Portrait of Lucian Freud
(R) Study for Portrait of Isabel Rawsthorne

  マーロンとマリア

主人公ポールとジャンヌの配役はスムーズには決まらなかった。特にポール役はまずジャン=ルイ・トランティニャンが「素っ裸になる気はない」と断り、続いてジャン=ポール・ベルモンドが「ポルノには出ない」と強く拒否、そしてアラン・ドロンからは婉曲な言葉でノーが伝えられ、早くもスタートの段階で暗雲が漂った。最終的にマーロンへ出演オファーされたのは俳優として下降線を辿る彼以外に誰も引き受け手がいなかったと云うネガティヴな理由によるものだが、私が思うに上記顔ぶれのなかで妻に自死され絶望に陥った男の心情を演じられるのはマーロンの存在を置いて他になく、図らずも望ましいキャスティングがスタッフの掌中に転がり込んできたようにも感じられる。棺に納められた妻の亡骸を前に悲嘆にくれながら彼女へ向かって毒づく即興演技などはマーロンでなければ出来なかろう

 

一方のジャンヌ役も当初監督の考えていたドミニク・サンダが妊娠中で契約がまとまらず配役は先行き不透明に。そんなときにサンダが仲間うちで撮った写真に佇む或る若者の姿がベルトルッチの目に留まった。そのどこかアンドロギュノス的で野性味に溢れた雰囲気がジャンヌにピッタリだと彼に確信させた女こそマリア・シュナイダーだった。俳優ダニエル・ジェラン(注2)の娘(但し婚外子)マリアは幾つかの作品に端役で出たりもしていたが演技を学んだわけではない。その彼女が本作にて「20世紀最高の俳優」たるマーロンの繰り出す様々なアドリブ技と正面で向き合いほぼ互角に渡り合ったのは驚きでしかない。これがどれくらい凄いかはボクシングを始めたばかりの選手がカシアス・クレイ(モハメド・アリ)と試合を行いノックアウトされずに時にはコーナーへ追い詰めて最終ラウンドまで戦い抜いたと例えたらよいか


(Photo: via IMDb)

  ポールとジャンヌ

前述した通りマリアはダニエル・ジェランが愛人との間に儲けた子供なので彼女は本当の意味での父親との触れ合いを知らずに育った。劇中においてジャンヌが早くに父親を亡くしたと云う設定はこのマリア自身の生い立ちをもとにイメージされたと考えられる。ジャンヌが年の離れたポールと密かに会うのは彼に父性を感じているからであり、ここにベルトルッチはマリア本人が奥底に抱える私情を活かそうとしたのかもしれない

 

ではポールの方は一体ジャンヌをどう見ていたのか。過去に前立腺を患い子供を持てないポールが彼女を自分の娘の如き立場に位置づけていたと仮定したならば、ふたりが日常生活を離れ古いアパルトマンの一室でセックスを言語に交わるのは疑似的近親相姦であり、ポールがアナルを介しお互いの身体に印を刻むのは(ジャンヌとアナルセックスをした翌日ポールは自身のそこへ指を挿入させる)血の絆を超えた背徳の契りを結ぶためだったと捉えられる。結婚を間近に控えたジャンヌはポールに関係の終わりを告げるがこれは大人への一種の巣立ちにして、彼女はあたかもファーザーコンプレックスに起因した幻想にピリオドを打つかのように父親の遺した拳銃にてポールを射殺する。従ってこの話はポール主体ではなく、あくまでもジャンヌが中心に語られた作品、現時点における私の解釈はこうだ。映画の終盤、追いすがるポールから逃げるジャンヌに向けて彼が投げかける言葉「ずっと探してきて、やっと見つけた」の真意を今まで測りかねていたのだが、此度鑑賞して「君のような娘を」やっと見つけたのニュアンスではないかと云う気がした。ポールの妻が自ら死を選んだ理由は述べられていないが、或いはその要因のひとつにふたりの子供を望めないことがあったのではないかと推測される

 

本作の撮影時マーロンは長男の親権を巡り元妻と争う渦中におり(マーロンの留守中に元妻が長男を連れ去る騒ぎも起こる)ベルトルッチはマリアと同様にこうしたマーロンの極めてプライヴェートな感情、つまり親子の情愛、をポールに反映させようとした可能性も考えられる。ベルトルッチはベーコンの作品を「人々がはらわたを吐き出し、その吐瀉物で化粧をしている」と評したが、俳優の内面を深々と抉る彼の演出方法にもそれとよく似た残酷さが窺えよう


(Photo: via IMDb)

  ベルトルッチとマリア

本人へのインタビューや周囲の評判に耳を傾ける限りベルトルッチが傲慢な側面を有していたのは第三者の私にも何となく感じ取れる。その彼が右も左も分からぬマリアに対し高圧的な態度で接したであろうことは想像に難くない。まさにマリアは醜いエゴと歪んだプライドが幅を利かす男優位の社会に放り込まれた生贄であり、彼女を単なる操り人形としか思わぬ製作現場全体の雰囲気があの悲劇を招いたとも云える

 

マリアのリアルな反応が欲しかった、ポールがバターを使ってジャンヌにアナルセックスを行うシークエンス(一応誤解なきように言及すると本作における交接は全て演技で本番行為は含まれていない)で事前にマリアへ一切の場面説明をせず撮影を強行した理由について後にベルトルッチはそんな言い訳染みた述懐をした。これを芸術至上主義と云えば聞こえはいいが現代ワードを用いれば只のパワハラに過ぎない。当該シーンはこの映画における核心部で非常に重要な個所であるが故、監督はその意図や意義を明示しカメラポジションや俳優の動きなどを確認したうえで臨むべきところを勢いまかせのワンテイクで撮影を敢行、前作「暗殺の森」成功により一躍「時代の寵児」ともてはやされたベルトルッチだが自らの未熟さを露呈した恰好だ。筋書に暴力的な味付けを施す意味合いで倒錯的行為を付加したと彼は話しているらしいけどもそれがもし本当だとしたら監督自身がこの物語を理解していなかったことになる。果たして真実はどうなのか

 

これまでのキャリアでスタッフの待遇などに関し監督や製作者と衝突もしたマーロンがここでベルトルッチのやり方に異を唱えずそのまま従うカタチになったのは残念な思いだ。恐らく俳優として革命者であったマーロンをもってしてもベルトルッチの前に上手く踊らされてしまったのかもしれない。自分の内側へ容赦なく踏み込んでくるベルトルッチにマーロンが違和感を覚えたことは撮影終了後10年以上彼との連絡を絶った件からも明らかである


(Photo: via IMDb)


  ポールとスタンリー

映画演劇史だけでなく服飾の世界でもマーロンは大きな足跡を残した。舞台版と銀幕版両方の「欲望という名の電車」でスタンリー・コワルスキー役を演じた彼の着用するTシャツ(身体の線を強調するためタイトに作られた)はマーロンの醸すアンチヒーロー的な魅力と相まり若者文化を象徴するアイテムとなった。それから20年以上の時が経ちポールと同じく中年になったマーロンは再びTシャツを着て(本作にインスピレーションを与えた絵画のなかでベーコンの友人ルシアン・フロイドが着るのもTシャツ)観客の前に姿を現す。ここでひとつ注目したいのはエネルギーに満ち溢れ若さを発散していたスタンリーとは異なり、人生に希望を失ったポールの着るTシャツがあたかも彼の様子を物語るかのようにヨレヨレであることだ。たかがファッションされどファッション、実に緻密な演出である。不思議なのはもし私がこんなヨレヨレのTシャツを身につけたら単なる「みすぼらしいオジサン」で片付けられてしまうのにこれをマーロンが着ると何だか格好良く見えることだ。髪が薄くなろうが腹が出ようが、やはりマーロンは「腐ってもマーロン」なのだ


(Photo: via IMDb)


  マリアとタンゴ

ベルトルッチが本作の演出によりアカデミー賞及びゴールデングローブ賞の監督賞にノミネートされ着実にフィルムメーカーとしてのキャリアを築き上げたのとは反対にこの撮影で心に深い傷を負ったマリアはやがて薬物へ依存するようになり生活は荒んでいく。この映画の印象が強い私は写真画像代理店に残るやせ細ったマリアのフォトを見る度に胸が締めつけられる思いで一杯だ

 

タンゴと云う言葉すら口にするのも耳にするのもマリアは嫌がった、と彼女の従兄妹ヴァネッサ・シュナイダーが著した書籍に記されている。マリアが自身のフィルモグラフィのなかで好んだ作品は「さすらいの二人」だったそうだが、その監督ミケランジェロ・アントニオーニは「ラストタンゴ・イン・パリ」を観てマリアに惹かれ直々に彼女へ出演依頼したのだから何とも皮肉な話ではないか

 

確かにマリアの立場からすればこのラストタンゴは自分を穢し貶めた最低最悪なフィルムであり、芸術の名のもとにベルトルッチが取った行為は全く容認出来るものでないのは明白なのだが、そうした醜い部分も全部ひっくるめてひとつのアートとして考えた場合にこれほど総合性の高い映画はいくつも存在しない

 

タンゴの本場アルゼンチン出身のテナー・サックス奏者ガトー・バルビエリが担った本作のサントラはアルバムとして完璧で私の愛聴盤だ。今宵もまた哀愁帯びた音色を聴きながらマーロンとマリアが演じた数々の名シーンに想いを馳せたい


(Photo: via IMDb)


原題 Last Tango in Paris

監督 ベルナルド・ベルトルッチ

脚本 ベルナルド・ベルトルッチ, フランコ・アルカッリ

撮影 ヴィットリオ・ストラーロ

編集 フランコ・アルカッリ

音楽 ガトー・バルビエリ

出演 マーロン・ブランド, マリア・シュナイダー

受賞 1974年グラミー賞最優秀インストゥルメンタル作曲賞

公開 1972.12.16 (伊) / 1973.06.02 (日本)


  Talk about various topics

本作の配役にはネオリアリズモやヌーヴェルヴァーグの影響を受けたベルトルッチのシネフィルとしての横顔が垣間見える

 

ジャンヌの恋人:

ジャン=ピエール・レオ 「大人は判ってくれない」

 

ポールの義母:

マリア・ミキ 「無防備都市」「戦火のかなた」

 

ポール妻の愛人:

マッシモ・ジロッティ 「郵便配達は二度ベルを鳴らす」

 

年増の娼婦:

ジョヴァンナ・ガレッティ 「無防備都市」

 

ポールが借りるアパルトマンの管理人:

ダーリン・レジティム 「鬼火」

 

ジョヴァンナ・ガレッティとマリア・ミキは「無防備都市」のゲシュタポ婦人将校と彼女に協力する密告人の関係で鮮烈な印象を残しており、ふたりの顔を見れば記憶が蘇る映画ファンも多いのでは

 

さらにキャストではないがフランス語ダイアローグをアニエス・ヴァルダが担当した


(Everett Collection)


(注1)フランシス・ベーコン大回顧展

1971年パリのグラン・パレにて開催された大規模な展覧会。同行していた恋人のジョージ・ダイアが開幕直前に薬物の過剰摂取で死去。この関連映画を先日鑑賞

 

【 2025-No.37 】

"愛の悪魔 / フランシス・ベイコンの歪んだ肖像"

イギリス 90分 1998年

 

ベーコンと恋人ダイアの出会いから破局までをベーコン的コラージュを施し事実と虚構を交えて語る。ダイア役の若きダニエル・クレイグがエゴイスティックなベーコンとの関係に悩み苦しむ様子を好演。モデルを直接描くのではなく知人のカメラで一旦撮影させ、その写真をもとに筆を執ると云うベーコン流の手法がなかなかに興味深い

 

(注2)ダニエル・ジェラン 

フランスの俳優。奔放で享楽的な私生活を送り、酒と薬物に依存していた。マリアはルーマニア人モデルの愛人との間に生まれた娘。代表作はヒッチコック「知りすぎていた男」、ルイ・マル「好奇心」など


【9月5日(金)公開「タンゴの後で」予告編】

 

【「タンゴの後で」原作書籍レビュー:2023年2月】

 

【マリア出演「さすらいの二人」レビュー:2023年3月】


参考文献

 

「あなたの名はマリア・シュナイダー」

ヴァネッサ・シュナイダー著 ( 早川書房刊 )

 

「母が教えてくれた歌」

マーロン・ブランド/ロバート・リンゼイ (角川書店刊)

 

「マーロン・ブランド」

パトリシア・ボズワース著 ( 岩波書店刊 )

 

「イタリア映画を読む」

柳澤一博著 ( フィルムアート社刊 )