俳優マリア・シュナイダーを語るとき、その映画のことには一切触れたがらなかった本人の意思に逆らうかのように、終生それが付きまとい続けた

 

私は、監督のベルナルド・ベルトルッチがマリアのリアルな反応を求めるあまり彼女の同意がないまま強行された「問題」シーンの演出方法は決して容認出来ないとしながらも、作品自体の芸術性は高いとして、その映画『ラストタンゴ・イン・パリ』を長らく自身のオールタイム・ベストに挙げていたのだが、今回本書に目を通し、心のなかに少なからず動揺が生じている

 

所謂「評伝」あるいは「ゴシップもの」の類ではない。例えるなら、マリアを主人公に二人称で記された小説に近い感じだろうか。著者ヴァネッサ・シュナイダーは、現在『ル・モンド』紙で記者を務めるジャーナリスト且つ作家であり、マリアの従兄妹に当たる女性だ。なので、内容は必然的にマリア目線となり、ベルトルッチを批判する姿勢には容赦がない

 

マリアは『タンゴ』のジャンヌ役を引き受けるべきではなかった、とヴァネッサは書く。当初この役にオファーされていたドミニク・サンダが妊娠中のため、代わりを探していたベルトルッチの目に留まったのが、ドミニクの傍らにいるマリアの姿を納めた一枚の写真だった。当時まだ二十歳前のマリアはかなり出演を迷ったらしいが、結局最後には依頼を承諾し、そして魔窟のようなショービジネスの世界で生贄とされた

 

これがリスキーな企画であることは、当然ベルトルッチは自覚していたし、マリアも薄々気がついてはいた。監督が映像と光にこだわった現場の状況は過酷で、一日十四時間の撮影が十五週間続き、マリアは体重が十キロ落ちた。ある日撮影の辛さを直訴したマリアにベルトルッチはこう言い放つ「お前は何者でもない。俺が発掘してやったんだ。とっとと失せろ」マリアに人権はなく、単にマーロン・ブランドの相手をする人形に過ぎなかった

 

ベルトルッチの傲慢さは、カメラマンとしてコンビを組んだヴィットリオ・ストラーロや『暗殺の森』『1900年』に配役されたドミニク・サンダも述べているところなので、恐らくこうしたエピソードには枚挙がないであろう。しかし彼のその驕り高ぶった態度がひとつの悲劇を引き起こす

 

バターを使ったアナルセックスでジャンヌが凌辱される場面は脚本にはない。そもそも即興が多用された『タンゴ』では脚本はなきに等しかったのかもしれない。納得のいくショットが撮れて満足気なベルトルッチとは反対に、自分だけ一切知らされずに監督らの餌食にされたマリアは荒れに荒れた。セットのカーテンを引き裂き、花瓶やランプを割り、床にものを叩きつけた。自分自身がひどく汚された、とマリアは感じた

 

前作『暗殺の森』で一躍「時代の寵児」扱いとなったベルトルッチがスキャンダラスな『タンゴ』を足掛かりにさらなるステッブアップを果たしたのとは対照的に、この映画でメンタル面に「深い」ダメージを負ったマリアの人生は暗転していく。ドラッグに溺れ、腕が注射針跡だらけでガリガリに痩せ細ったマリアと、彼女の支離滅裂な言動を間近で見てきたヴァネッサの記述は読んでいて非常に胸が痛む

 

一本の映画には数多くの人々携わっており、エンドクレジットがイコール、監督からの謝辞と考えていいのかもしれない。もし仮にキャストやスタッフのうちにその作品への関わりを「誇り」に思えない人物がひとりでもいたとしたら、それを傑作と呼ぶことに私はやはり抵抗がある。だから今、正直『タンゴ』の評価は決めかねている

 

施設での療養の後、ドラッグを断ったマリアを今度は重い病が襲う。彼女は亡くなる数日前ヴァネッサに優しい笑顔を浮かべながら言ったそうだ

 

素晴らしい人生だった、と

 

享年58歳。たしかに早すぎる死だが、私を含めたシネフィルたちの間ではマリアは永遠に輝ける存在である

 

彼女が一番好きだったという出演作、アントニオーニの『さすらいの二人』を久々に観てみようか

 

『あなたの名はマリア・シュナイダー』

ヴァネッサ・シュナイダー 著(星加久美 訳)

2021年4月初版発行

早川書房 刊

Photo by Jean-Jacques LAPEYRONNIE