λへの導入 | Chandler@Berlin

Chandler@Berlin

ベルリン在住

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標準的な数学の本ではある数学的ことがらを説明するのに,定義,定理,証明,定義,定理,証明,,,のように話が進んでいく.そのようにすると話は(ある意味)すっきりするし,数学の抽象化というものが上手く働く.だからλ計算に関してもそのように話をすすめるのが標準なのだが,マービンに言わせればそれほど気が滅入ることはないだろう.抽象化されたものは応用が利くし,余計なことを言わないので単純さと美しさがある.つまり,的を射ているのである.

日本の刀 はその美しさを刃に求め,余計な宝石で飾ったりしない.美しさはそのもの本質を追及することにあると考えるからである.美術館には刀や杖を宝石で飾りたてたものが多くある.そこに豪華な美を見ることも私にはできるが,本質と美しさを単純さの中に求めたものにも私は美を感じる.ある飛行機乗りが「全ての不要なものを取り去った時,完全性が達成される」と言ったという話を聞くと共感できるものである.そしてかつてスウェーデンの海に沈んだ Vasa の話は私のお気に入りの一つでもある.(これはプロジェクトマネージャーの王様が機能拡張を要求しすぎた例である.シリウスサイバネティクスのソフトウェアは顧客が欲しいとマネージャが思った機能を追加しすぎて使いものにならなくなったソフトが多い.顧客は単に機能縮小しても,安定したソフトが欲しかったりする.(Kode Vicious Pride and Prejudice (The Vasa) CASM Vol.51, No.9 ))

数学の美しさはその抽象性と単純さにある.だから余計な背景や説明を除いてそのものだけを論じたくなるのはよくわかる.しかし,それはわかる人にはわかるということである.私はここにちょっとした排他性を見る.

あるものの側面に,ああ,美しいなということを発見することはとても嬉しいことである.そして時にそれを独り占めしたくなるのも人情かもしれない.広く知られることによって大衆化して,皆が知っていると寂しく感じるということもあるのかもしれない.ある数学を愛する人は数学をますます純化し,抽象化してその美しさを求めてしまうかもしれない.しかしそうなったものは本当にその的だけになってしまい,その背景にあったものや歴史を捨ててしまう.それは本質なのだから,それでいいのかもしれないが,親しみがなくなってしまう.わかった気にならないのである.

そうやって捨てられてしまったものも,私は気になってしまう性質である.なんでλなんてものを考えるのか,ということはこの体系ができてしまった後ではそんなに重要ではないかもしれない.λに何ができるかというのが結局より本質的なことである.数学ではそれそのものよりも,それが何ができるかの方が重要である.

ガイドのボゴン人のビジネスはまったくドライである.相手が何ができるかということこそが重要であって,それが誰かということはまったくどうでも良い.いや,彼らには親戚関係だって単なる関係でしかない.おばあちゃんが助けを求めても,孫たちは契約書がなければ指一本動かさないのである.ドライな会社のようなものである.新しい機能を実装できるかどうかが従業員に求められているものの全てである.もちろんそれこそがビジネスには重要なことではあるのだが,それを行う人間はある意味本質ではなく,どうでも良いのである.その会社の誰かがそれをできれば,誰がやってもかまわない.するとそれは誰がやったかという意味がなくなる.通常は会社の機能としか見られない.ただし,人間の場合には,あんまりそうなるとそこでの働きがいがなくなってしまい,そういう会社は人材を失い,最後には機能も失うことが多い.

ラムダに何ができるかが重要であって本質であることは確かだが,ここでは余計なことを述べてみよう.まず,どうしてλなんてものを考えようと思ったかである.λだって人間の考えたものであるから,何か動機があるはずである.マービンもあれほど気が滅入っている存在は宇宙にはないほどであるが,そういうものを作りたくて作ったのではなかった.単に天才を何百人集めたら大天才になるだろうという考えで設計されたのだ.しかし,何百人分もの天才が集った脳が正気であるという保証はなかったこととか,天才はえてして紙一重であるという古くからの知恵を無視してしまった結果であった.λもある目的のために考えられた,それが後から見ていかに変であっても,目的自身はそんなに難しいものではなかった.次回はλの動機について書いてみよう.