こんにちは。慣れないブログを書いて3日目。

つたない文章を読んで下さった方々 心より感謝。

10年間の家族でのアメリカ生活の一部始終を皆様にお伝えし、我が家が経験した事が少しでもお役に立てたら幸いと思い、家族の日記を少しずつ記して行きたいと思ってる。

振り返りながら書いている為、時系列が前後するがご容赦下さい。

今日は夫の転勤話から家族で渡米するまでをまとめてみました。

 

ヒューストンへ転勤が決まったよ。

の一言から始まった我が家の壮絶アメリカ生活。望んでいた転勤も諦め、長女の中学受験真っ最中に突然切り出された夫からの衝撃的告白。あれほど夢見ていたアメリカ生活だったのに、私から溢れ出た言葉は

えっ。。。今更。。。

飛び上がって喜ぶと思っていた夫は返す言葉がなかったらしい。

2009年12月のクリスマス前に夫から告げられたアメリカ南部テキサス州ヒューストンへの転勤の話はこてこての日本人として育った当時小学校5年生、小学校2年生だった娘2人にとっても衝撃だったことは言うまでもない。

それ以来、10年間ヒューストンで生活した長女はUniversity of Califolnia Berkeley(UC Berkeley)へ進学、卒業、今は医学の大学院を目指しヒューストンで勉強中、次女はシカゴ大学で同じく医学の道を目指しながら大学生活1年目を過ごしている。

この10年は人様には言えない程の苦労の日々だったが、今となっては良い経験をさせてもらったと笑って振り返ることができるようになった。

 

帰国子女は英語が話せていいよね。と殆どの方が思うのは当然だろう。勿論私も羨ましいと思っていた。しかし数十年前の商社勤務時代、イギリスからの帰国子女だった後輩の女性が帰国子女らしからぬ、大人しく内気で話をしない理由を尋ねたことがあった。高校生で日本へ戻ってきた時、自分を主張しすぎて学校でいじめにあい、それ以降自分を表現せずに静かに生きてきたと とうとうと出し過ぎ、前に出過ぎて学校でいじめにあっているという話も見聞きしたことから、ヒューストン転勤が我が家にとって諸手を挙げて喜ぶことではないと私は出発の日まで胃を痛めて過ごしていた。

 

2010年4月 一足先に渡米した夫が私に郵便でアメリカから送ってきてくれた物、何と、今では考えられないが、ヒューストン市内の折り畳みできる大きな地図。これを見て仕事が忙しく家探しが出来ない夫に変わりまずアパートを探してくれという。なぬ〜。私は一人でお転婆娘二人の世話をしながら家中の物を倉庫へ、実家へ、ヤフオク(当時メルカリはない)と手配しなければいけなかったのに。

 

あの地図は渡米してからも中古の赤いジープラングラーで知らない道を走るのに大変役立ち、最後はボロボロになるまで使用していた。あー懐かしい。

 

中学受験を目指して勉強していた長女は2010年2月に通っていた塾を辞めて 残りの日本での生活を少しでも英語に触れようと公文やご近所の英語が話せる方に英語を習っていたが、今思えば、我が家に関して言えば殆ど役に立っていなかったと思う。

友達にギリギリまでアメリカへ行く為 学校を辞める事を言わなかった長女に理由を聞いてみた。引っ越す事を早く友達に話してしまうとその時点で友達が離れてしまい怖かったから 

2010年7月 へとへとになりながら引っ越しを終え、吉祥寺第一ホテルから娘2人とタクシーで成田へ向かう朝、友人と母が見送りに来てくれた。母は涙を流して見送ってくれた。何気ない見送りだったが今でも鮮明に覚えている。久美ちゃん、母上殿 見送り本当に有り難う。一生の思い出です。タクシーの運転手さんに私が伝えたことは、 すみません。疲れ切っているので成田到着まで寝てても良いでしょうか。今まで生活していた土地を離れ異国で生活する迄の日々は思っていた以上に大変な準備と労力が必要だったのである。

 

今日はここまでとさせて頂きたい。渡米迄は持ち家を転勤の間 賃貸としていたので 借主の方を探したり 家の中を空にしないといけないので家中の大掃除を1人でこなす事が一番大変だった。明日から波乱万丈の生活が始まります。