何かが足りない-第九章 心の中の氷-
前回までのお話は、こちら(目次) から
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壁にかけている時計を見つめた。
カチ、カチ、カチと秒針が動く。
あっ、もうすぐだ。
カチ、カチ、カチ。
7時になった。
でも、木室さんから連絡はない。
私は待ちきれなくて、玄関に行った。
もう来るはず。
7時5分。待ちきれなくて電話をかけた。
「もしもし」
と落ち着いた彼の声。
「今どこですか?」
「そこのコンビニ。」
「じゃあ、今から外に出ます。」
「はい、よろしくね。」
ちょうど、外に出たら彼の車が私の前に停まった。
窓を開けて彼が言った。
「どうぞ。」
「おじゃまします。」
私はなんだか、急に緊張して、何から話をすればいいのか分からなくなった。
もじもじしていると彼から話しかけてくれた。
「お寿司でいいかい?」
「この辺りのお店知ってるんですか?」
「ううん。家の近くにおいしい寿司やがあるから、そこにいくんだ。8時に予約とってある。」
「えっ、戻るんですか?」
「そうだけど。」
「わざわざ、迎えにだけ来てくれたんですか?」
「そうだけど。悪い?」
「ううん。嬉しいです。」
車で約1時間ほどの距離を私と食事するために迎えに来てくれる。
この1週間は考えすぎだったんだ。
私は嬉しくて顔が自然とほころんだ。
一度、彼のマンションに車を停めて、そこから一緒に歩く。
5分ほど歩いたところにカウンターとテーブルが二つ置いてある小さなおすし屋さんに着いた。
「回っていないお寿司見るの久しぶりです。」
「あれ?ユウコちゃんを回転寿司に連れて行く失礼な男がいるのかい?」
”男がいる”という言葉に妙に反応して、慌てて私は言った。
「男の人と二人で食事もかなり久しぶりですけど、今まで付き合った彼氏は全員回るお寿司しか食べさせてくれませんでしたよ。こういうお寿司屋さんは、親と数回来たくらいです。」
本当にそうだった。同年代の男の子はこういうところには連れてきてくれない。
彼は私の言葉を聞いて笑った。
「じゃあ、今日は好きなだけ食べなさい。」
「はい。」
はいと言ったものの、私は一体何から頼んだらいいのか分からなかった。
あまり高いのも頼めないし、何がおいしいのか分からなかった。
じっとメニューを見ていると彼がこういった。
「ユウコちゃん、好き嫌いは?」
「ないです。」
「じゃあ、注文任せてくれる。」
「実はそっちのほうがありがたいです。何頼んだらいいのか分からなくて。」
そういうと彼は店主に向かってこういった。
「まず、冷酒とそこの中トロを刺身で、サザエも造りにしてくれるかな?白えびも造りで。そこのトコブシの煮付け出来る?」
「はい。」
ちょっと無愛想な店主がすばやい手つきで、お造りを盛り合わせていった。
冷酒が出てきた。
水色のガラスの入れ物に入った冷酒を見て私はうっとりした。
「綺麗な入れ物。こんな風になってるんだ。」
「あれ、冷酒器に入った冷酒呑むの初めて?」
「あっ、これ冷酒器って言うんですか?私が見るのは安い居酒屋の冷酒だから・・・こんな綺麗な入れ物に入っていません。」
彼は少しうなずいて、微笑みながらお酒を注いだ。
「じゃあ、乾杯。」
「乾杯。」
本当は、日本酒は少し苦手だったけど、いいお酒だったせいか、この空気に酔いしれていたせいか、とてもおいしく感じた。
「おいしい。私の中の日本酒のイメージが変わりました。」
「そうか、それはよかった。」
彼は、私に初めてをいっぱいくれる。
私が求めていたのはこういう人なんだ。
冷酒器の中の氷が溶けていくのをながめながら、私の心も彼にどんどん溶かされていくように思えた。
今日私は彼に抱かれよう。
私は、そう心に決めた。
無造作に置いてある彼の手の上に私の手を重ねた。彼はその手をそっと動かし、そっと私の親指を触った。
彼の手のぬくもりが、『今日はずっと一緒だよ』そういっているように思えた。