何かが足りない-第二章 きっかけ-
前回までのお話は、こちら(目次) から
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手のひらが痛い。
私は、辛いことがあると手をギュッと握り締める癖がある。
今朝は目が覚めると手のひらにつめの跡が残るくらい、きつく手を握り締めていた。
夢の中で泣いていたような気がする。
腫れた目をタオルに包んだ氷で冷やして、ため息を飲み込むように冷たいミルクを飲んだ。
今日も一日始まる。
頑張らなきゃ。
辛いことがあっても、何故か私はいつも笑顔で過ごしてきた。
小さい時から寂しいって言葉を伝えたくても伝えられない。
だから、彼にも正直に甘えることが出来ないのだ。
彼と出会ったのは2年前。
彼は、派遣会社から派遣された先にいた課長だった。
穏やかな話し方、そしてすばやい頭の回転、行動力、できる男って感じだった。
木室 武志。36歳独身。そのとき私は27歳。彼氏と別れたばかり。
前の彼氏には、私は「君のペースにはついていけない」という理由で振られた。
私なりにショックだった。前の彼が私から離れないという自信が少しどこかにあったように思う。
気持ちを切り替えるために、長く勤めていた会社を辞めて、この会社に来たのだ。
でも、ここにきて木室さんから名刺をもらった瞬間、私は振り回す女から振り回される女になったような気がする。
私は彼に好かれるために、社員より仕事を頑張った。
そして、その成果が認められ、今では正社員にさせてもらった。
電車に乗って1時間。ipodに入れたお気に入りの曲を13曲聴くとちょうど会社に着く。
「おはようございます。」
「おはよう。ユウコちゃん。」
「今日も暑いね、ユウコちゃん。」
「あっ、おはようございます。」
会社に着くと、掃除のおばさん、おじさんに挨拶するところから始まり、5階にある私の職場までずっとこの調子。
最後に、私の職場の一番奥にある、一番大きな席の彼に挨拶する。
「木室課長、おはようございます。」
「ああ、おはよう。」
優しい笑顔で私に挨拶する。
その度に、この笑顔は私だけに向けられたものなんだと心が熱くなる。
「吉岡さんは、いつも元気だね。どうしたらそんなに元気でいられるの?」
「元気なことないですよ。」
隣の席に座っている、斉藤さんが声をかけてくる。
斉藤さんは、この会社にもう18年も勤めている、大先輩の女性である。
私をどの角度で見たら元気に見えるのだろう?
仕事の途中、斉藤さんが声をかけてきた。
「ねぇねぇ。吉岡さん」
「はい。」
「木室さんのことどう思う?」
「どうって?」
「あの人って仕事も出来るけど、どうしてあんなに女癖悪いのかしらね・・・昨日も見ちゃったのよ。前にここで働いていた女の子と二人でコンビニはいっていくところ。吉岡さんも気をつけなさいよ。」
「大丈夫ですよ。私には興味なさそうだし。」
そういいながら、私は飲みかけのお茶をこぼしそうになった。
えっ?私とメールを昨日やり取りしていたのに?
「そう思っているのが危ないのよ。ここに来た派遣の子も何人彼に泣かされたことか・・・」
それ以上は聞きたくない。
私は嫉妬と不安で体の血の気がサッと引いていくような感覚を覚えたが、満面の作り笑顔でこう返した。
「へぇ。私は2年間一度も声かけられたことないですよ。そんなに魅力ないんでしょうか。」
「ふふ。吉岡さんがしっかりしているから声かけれないんでしょうね。」
本当に彼は、そんなに女癖が悪いのだろうか?吉岡さんの嘘なんだろうか?
もしかしたら、斉藤さんも吉岡さんと?
それはないか・・・
私が彼と仲良くなったきっかけは、私がこの職場に来てまもなく行われた私の歓迎会の帰りだった。
一人少し遠方に帰らなければいけない私は皆より一足先に店を出た。
帰り際、木室さんが危ないからと駅まで送ってくれた。
その時、彼が「家に着いたら電話して」と私に携帯電話番号を書いて渡した。
そして、彼も連絡がなければ、心配だから念のためにキミの番号も教えておいてと、手帳を差し出した。
私はためらいもなく、そこに自分の番号と何故かメールアドレスまで書いて渡した。
家に着いて、彼に電話した。
「もしもし、今着きました。今日はありがとうございました。」
「いえいえ。また皆で行きましょう。」
電話を切ってしばらくすると携帯が鳴った。彼からだった。
『月曜からも仕事頑張ってください。これからもよろしく。』
私はドキドキしながらメールを返した。
『こちらこそよろしくお願いします。』
9つ上の男性。私は、どう対応していいかわからなかった。
その日から、彼と私のメール交換が始まった。
会社での厳しい彼とは違って、メールではかなり優しかった。
『明日は月末で忙しくなるな。頑張ろうな。』
『はい。頑張ります。』
1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月。メール交換だけで特に進展はなかった。
半年が過ぎた頃、彼が個人的に私を食事に誘った。
「君の頑張りのお陰で今月の売り上げかなり伸びたよ。お礼に何かご馳走するよ。」
私はかなり嬉しかった。
そう、私はメールのやりとりと毎日私のディスクからチラッと見える彼の仕事をしている姿にすっかり心をこのとき奪われていたのだ。
一緒におすし屋さんに入り、二人で楽しく会話する。
女癖が悪いという噂は前から聞いていた。だけど、私には手をまったく出そうとしない。
メールだけで楽しんでいるようにも思えた。
「木室課長、今日はありがとうございます。」
「吉岡さん、前から言おうと思ってたんだけど、個人的に連絡取るときは、課長っていう呼び方やめてくれない?」
ドキッとした。今夜何かが起こりそうな気がした。
「あっ、はい。では、なんて呼びましょう?木室さんでいいですか?それとも武志さんとか?」
私は冗談ぽく笑って言った。でも、内心、武志さんって呼ぶときかなりドキドキした。
「ははっ、そうだな。じゃあ、武志さんでいいや。僕もユウコちゃんって呼ぶよ」
ユウコちゃんと呼ばれた瞬間、私の体が熱くなるのを感じた。
名前を呼ばれただけでこんなに体が反応するのは初めてだった。
なんだか彼との距離が一歩ちかづいた気がした。
無邪気な笑顔。時々見せる少年のような眼差し。そして、年上の包容力。
少し前までは、35歳以上はおじさんのような気がしていた。
だけど、目の前にいるこの人は、一緒にいると年齢差なんて感じさせない。
こんな人を待っていたんだ。
彼が今まで独身なのは、私と出会うためだったのじゃないかと本気で思った。
私は、熱くなる体を抑えるためにトイレに立った。
「すいません。お手洗いにいってきます。」