- グニェズドヴォ(Gnezdovo)村近くのカティン(カティニ Катынь / Katyń )の森 で25,000人のポーランド 人がソ連の内務人民委員部(ソ連の秘密警察)KVD:НКВД によって裁判無しに銃殺された事件。
1939年 9月 、ナチス・ドイツ とソ連の両方に侵攻されたポーランドは敗北し、多くのポーランド人が戦争捕虜になっていた。1943年 、ドイツ国防軍はカティン近くの森で溝を発見し、4,000人以上のポーランド軍将校・警察官・公務員・元地主の遺体が埋められているのを掘り起こし、ソ連が彼らを裁判無しで虐殺したとして非難した。連合国側は暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パーク で枢軸国 の無線通信を傍受し解読していたため、ナチスが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年 に侵略してきたドイツ軍によって戦争捕虜のポーランド人たちは捕らえられ、殺害されたと主張した。
1944年 、ソ連はカティンの森を再調査し、死体を再び掘り起こした。同年、アメリカ 大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト はカティンの森事件の情報を収集するためにジョージ・アール大尉を密使としてバルカン半島 に送り出した。アールは枢軸国 側のブルガリア とルーマニア に接触して、ソビエト連邦の仕業であると考えるようになった。F・D・ルーズベルトはこの結論を拒絶した。彼はナチスの仕業だと確信していたと言われている。アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、フランクリン・ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務からはずされ、戦争の残りの期間をサモア で過ごすこととなった。
1989年 、ソビエト連邦の学者たちはヨシフ・スターリン が虐殺を命令し、当時の内務人民委員部長官、ラヴレンティ・ベリヤ が命令書に署名したことを明らかにした。そして1990年 、ミハイル・ゴルバチョフ はカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部(NKVD )がポーランド人を殺害したことを認めた。1992年 、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第一号から公開した。その中には西ウクライナ 、ベラルーシ の本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書やソ連の政治局 が出した1940年 3月5日 の射殺命令や21,857人のポーランド人の殺害が実行され、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたニキータ・フルシチョフ あての文書も含まれている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』