各自がなにか自分の興味あるトピックについて発表をし、クラスみんなでだらだらおしゃべりする木曜5限の英語の授業。
今回私は手話、Sign languageについて発表した。

あ、そうだ。
その2週間前くらい前に、とある知り合いの方に卒論のインタビューを受けたんだった。心理学を専攻している彼女は私に「聞こえる人=聴者」集団と「聞こえない人=ろう・難聴」集団に対するイメージについていくつか質問をして、私はそれに答えた。
質問されるとやっぱり、考えることになる。


私はいったい、どうしたいんだろう。


ときどき、聞こえる人中心の社会に生きていると、自分が場違いなところにいるのではないかと思えてくる。
聞こえないのにわざわざ大学に来て、なにやってるんだろ。
聞こえないのに英語なんか勉強して。
聞こえないのにロシア留学なんて行って。
これまでにもたびたび、そんな思いにとらわれてきた。逃れようとしても振り払えない劣等感。

聞くことをきれいさっぱり諦めたら。英語を勉強するのも、大学に行くのも、コンビニのバイトも、自分が聞こえないことで惨めな思いをする場所全てから逃げ出したら。
そうしたら楽になると思う?

「ろう者は、聞こえないことが当たり前。聞こえないことに対してマイナスな考えを持たない。」私はインタビューの時にそう答えた。
補聴器なんかつけて無理して聞こうとするよりも、手話を自分の言語として使い、聞こえない自分として堂々と生きて生きたい。と思う。
でもそれができないんだ。
聞くことを求める無言のプレッシャーに、打ち勝つことができない。周囲の「聞いてわかりなさい」という期待に、できる限り答えるものだと。そういう生き方を私はしてきた。それを変えるのは難しい。
補聴器をとった状態のまま、コンビニのレジに立つことや、友達と話すことを、想像してみるととても恐ろしいんだ。

いっそのこと、自分の世界に閉じこもりたくなる。
聞こえない者が聞こえる者の中に混ざって暮らすことは、面倒を生み出すばかり。私は邪魔者なんだ。。。


手話について英語をしゃべって発表した。
私は話せる。ある程度聞こえる。難聴として生きている。聞こえる人中心の社会に順応しようと努力して、でも完全に聞こえる人のようにはなれない。目には見えないコミュニケーションの壁を、常に1人感じている。

もしみんな、聞こえる人もそうでない人も、手話を知っていたら、もっと自由だったかもしれない。
話すことが面倒でなくなったかも。

「面倒」っていう言葉を使う時、私の心はすごく苦しくなる。このこと前にも言ったっけ?
理想と現実のギャップ。
意思と怠惰の葛藤。
「できる!」と「無理だ。。」が相戦う。
本当はこうしたいんだ!こうすべきだ!こうするのが自分として正しいんだ!と思うんだけど、気持ちがそうしたくない時、嫌で嫌でたまらない時、胸の内の苦しさが「面倒だ」と言葉になって出てくる。

でも、この苦しさをごまかすことなどできはしない。

昨日なんだか目が疲れていたのか、左目から涙が止まらなくなって困った。玉ねぎを切っていたわけでもないし、まつ毛が目に入ったようでもない。心が苦しがっていたのかもしれない。


ずっとずっと、引っ込み思案で内気な自分を変えようと、努力してきた。社交的である自分でいたかったから。自分から周りの人に話しかけて、明るく受け答えして、そうするのがいいことと思っていた。聞こえないけどがんばる、前向きな姿を理想的だと思い込んでね。
でもなにが本当は正しいのか、どうするべきなのか、私は見失った。

しばらく布団の中に潜り込むか、放浪のひとり旅に出てしまいたい気分だけど、そういうわけにはいかない。
明日は朝バイト、午後友達と遊びに行く約束してる。来週はまた発表、と発表、と卒論テーマを確定して報告、それにもうじき締め切りのレポートがいくつか。
それから夜に会議が2つと、また別の友達の卒論インタビューに答える約束しちゃった。
全部私が「やりたい、がんばりたい」と思うことなんだ。
逃げるわけにはいかない。

さぁ、やろう。
まずは道徳についてミニ授業の準備からいこう。それが終わったら、英語のプレゼンの準備ね。
すぐできる。大丈夫だ。