前回まで、長州藩のお話を

しましたので、

齋藤武夫先生の歴史授業を

もとにしながら

今日から薩摩藩のお話を

していきます。


幕末の政局は、

幕府・薩摩・長州

3つのパワーで

動いてきました。




薩摩藩は幕府と結び、

公武合体幕政改革の道を

歩んでいました。


開国反対の朝廷の意見を無視して、

幕府がアメリカと条約を結んだ!と

怒った反対派の人たちを、

老中の井伊直弼が処罰。


うらみをかった井伊直弼は、

桜田門外の変で殺される。


そんなガタガタの幕府の権威タラー


孝明天皇の妹の和宮と、

徳川将軍の家茂が結婚するとこで

朝廷と仲直りして、

朝廷の権威のもとで、

幕府を立て直す計画だった。



藩の中で、

外国人を追い払おうとする

過激な攘夷運動をおさえ、

わが道をゆく薩摩藩。


なのですが、

実は薩摩藩は、

長州藩よりも先に、

攘夷を断行するような

生麦事件を起こして

いたんですね(^o^;)


幕府の開国の方針を支え、

過激な攘夷運動をする

長州藩を征伐する時も、

先頭を切っていた薩摩藩。


それがなぜ、

世界最強の大英帝国と戦争

することになったのか??

ガーンガーンガーン

そこを学んでいきますグー


ペリーの黒船がやってきて



およそ10年後…


通商条約を結んで

5年後の出来事です。



今の横浜市鶴見区にある

生麦という場所で、

1862年、

薩摩藩の最高指導者、

島津久光が、



軍勢を連れて江戸に行き、
幕政改革を進めた後、
8月21日に江戸を出発。

率いた軍勢は400人あまり。


生麦村という所で、
馬に乗ったイギリス人と
行き合った。

横浜の貿易商と、その連れ
合わせて4人。一人は女性。

東海道で、観光目的で
乗馬を楽しんでいた。


大名行列は大勢で
道幅いっぱいいっぱい
だったでしょう。

そこへ通訳もおらず、
何も知らないイギリス人は、
すき間をうまく通れば
通れるかな?ぐらいの
感覚で、馬に乗ったまま、
大名行列の中に…

しかも島津久光の乗った
かごの横を通ってしまうガーン


大名行列の方からすると、
日本の国法では、
無礼な行為があった時は、
切り捨てるべき
定められている。

大事なお殿様の近くに
馬に乗ったまま近づく
イギリス人は危険。
お殿様をお守りするのが
武士のつとめ。

お供していた数人が、
イギリス人に
斬りかかった。


一人は深手を負い、落馬。
とどめを刺されて死亡。

二人の男性は
深手を負うが、
馬を飛ばし逃げる。

女性は帽子と髪の一部が
とばされるも無傷。

神奈川のアメリカ領事館に
助けを求めて駆け込んだ。

こうしてイギリスを
怒らせてしまったのですアセアセ


これが生麦事件です。

幕府の側からしたら、
世界最強の大英帝国に
なんてことをするんだガーン
とあわてますが…

朝廷や
外国人を良く思わない
人たちは、
「よくやった!!爆笑

と、そんな温度差が
あったわけですね(^^;

その事件後の出来事は、
次回に続きます。