上海へ研修旅行に行き、

イギリスに支配される

中国を見た高杉晋作。


このままでは日本も

占領されてしまう!ガーン


ということで、

吉田松陰の弟子たちと共に

必死に外国と戦おうと

頑張りますが…


1864年7月、

四ヶ国連合艦隊が

下関を攻撃し、それと

長州藩は戦いますが、

なんせ

鎧兜よろいかぶと

ゆみと槍やり

鉄砲もあったけれど、

火縄銃ですタラー


長州軍はこてんぱに

敗けてしまいましたえーん



高杉晋作は、藩の家老だと

うそをついて

伊藤博文を通訳として

イギリスとの講和会議に

のぞみました(^o^;)



ここで

もう攘夷じょういはやらない

と約束させられますタラー


こうして実際の

西洋列強との戦いで

学んだ高杉晋作は、

国づくりの大方針

立てました。


日本を西洋列強と、

対等に付き合える

強い国にする!


そのためには、

開国するべきである!


高杉晋作は、

「西洋と対等に付き合える」

というところに、

攘夷の本来の意味を

持っていき、

小さな攘夷から、

大きな攘夷に変わったんだ

と言いました。


小攘夷→大攘夷


大攘夷というのが

開国の方針でした。



ここで政治の動向について

見てみます。


外国人を排除しようと、

過激な行動で

朝廷と結び付いていた

長州藩だったので、


薩摩藩と会津藩に

京都から追い出されますタラー


怒った長州藩は、なんと

薩摩と会津藩が守る

京都の御所を攻撃

してしまいますガーン

(禁門の変)


実は、幕府がアメリカと

条約を結んでいいかと

天皇をたずねた時から、

政治の中心は、京都に

移ってしまっていたタラー


京都を中心に、政治が

動いていくようになり、

幕府は長州藩を攻撃ドンッドンッドンッ

これが長州戦争の始まり。


これを計画、指導したのは

西郷隆盛さいごうたかもりでした。



長州藩は、これに
戦わずに降伏こうふくします。

こうして長州では、もう
幕府とは、なあなあで
やっていこう、
長州が安全なら、
それでいいや、と
幕府にしたがう者が
政権を握りました。

そして高杉晋作や、
桂小五郎(木戸 孝允 きど たかよし)ら
正義党は、追放されますタラー

追放された高杉は、
どうしたでしょうか??

高杉は、
日本を変えるためには、
まず長州藩を変え、
幕府を倒すしかない
と考えました。

そして長州藩を
正義党の手に取り戻す!
という戦いに
立ち上がろうグーグーグー炎と、
奇兵隊に呼びかけました。

けれども、
長州藩の正規軍は3000ガーン

これと戦おうと思う者は
ほとんどいないタラータラータラー

高杉の呼び掛けで
功山寺こうざんじという
お寺に集まってきたのは、
たったの80人ガーン

このたった80人の中には、
伊藤博文もいて、40人の
おすもうさん部隊を連れ、
やって来たそうです。

3000対80でも
高杉晋作は、
戦うことを決断!

萩に向かう途中で、
次々に仲間が増えて、
ふくれあがり、
奇跡が起こりました。

決起は大成功。
これが功山寺決起です。

こうして長州藩は、
幕府に従う者たちが
追い出され、
松下村塾グループが
政権を握りました。

高杉晋作、桂小五郎たち
をリーダーとして、
再び「倒幕方針」に
もどりました。

これは天をひっくり返した
正義の企くわだ
ということで、
回転義挙かいてんぎきょ
呼ばれました。

高杉晋作の
国づくりの大方針は、

幕府を倒し、
日本を天皇中心に
一つにまとまる国にする!

という方針に
まとまります。

功山寺決起は、
高杉なりに
吉田松陰先生の教えに
学んだ行動であった
と思われます。

この二年後、幕府は
長州藩をつぶすため、
大軍を送りました。
(長州戦争の二回目)

高杉たちの長州藩は
もう敗けませんでした。

西洋式の軍勢をひき、
軍事力を高めていたから。

その後、
長州藩と薩摩藩が
日本を動かしていきます。

1867年に、高杉晋作は
肺結核で亡くなりました。
師匠の吉田松陰と、
ほぼ同じ年齢の29歳です。

新しい明治日本は、
もうあと一年後。

そんな時に高杉は
病に倒れてしまいました。



齋藤武夫先生の授業で
このようにまとめて
いらっしゃいます。

これから日本が
どのような国を目指して
これからの時代へ
向かっていくのか、
とてもわかりやすいです♪

こんな風に命をかけて
西洋列強の支配から
日本を守ろうと、
勇気を持って
頑張ってくれた先人たち。

感謝の気持ちいっぱい
になる授業ですピンクハート