前回の続きで、

CGSの目からウロコの歴史や、

日本が好きになる歴史授業から

お話を書いていますニコニコ




こう言って江戸近海から
去って行ったペリーは、
実は怖くて他の海岸には
近づけなかった。

江戸は世界で最も大きな
人口をかかえた都市。

アメリカの大砲を
花火とまちがえた民衆は、
よろこんで大勢で海岸に
集まってきていたので、
「すごい人数の兵隊だガーン
と、ペリーたちも
かんちがい。

怖くて他の場所には
上陸できなかった。

だから
『一年後に出直してくれ』
と言われた時に、
おとなしく引き下がった
という、おもしろい
お話もありましたが笑い泣き

実はペリーたちは、
再び江戸にやってくる前、
沖縄に寄ってから
江戸に来たそうで…

このような話が
紹介されています。
↓↓↓

沖縄では、
アメリカ艦隊の
大砲の口をいつでも
発射できる状態で
首里城に向けたまま、
武装した500人の兵を
上陸させてきたガーン



沖縄は当時、
琉球りゅうきゅうという王国で、
琉球王に対して、
ペリーは食料と石炭の
提供を命じた

「琉球では石炭は
産出しない」と言うと、

琉球諸島、全部から
石炭を探して掘ってでも
持ってこい!

持ってこなかったら、
大砲を打ち込み、
全員、皆殺しにする!
と言う。

でも、無いものは無いタラー
だから、
「とにかく石炭はない」
と答えると、

ならば、
上陸した乗組員たちの
自由な行動を認めろ!
と言うので、
その程度ならば…
と承諾しょうだくすると
とんでもないことにガーンガーンガーン


上陸したペリー艦隊の
乗組員たちは、
街を歩く若い琉球の
女性の乳房を
さわるだけではなく、
昼間から市中で
強姦ごうかんはじめた。

勝手に民家に上がり込み、
仏壇に供えてある
酒や食べ物、
位牌(いはい)まで
持って行ってしまう。

強姦に抵抗した
住民に向けて銃を発砲し、
12歳の少年をふくむ、
三人の村人を負傷させた。

ナイフを突きつけて、
民家に押し入り、
強姦、暴行、傷害を
ほしいままにした。

住民たちは怒り、
米国人水兵たちに
投石をはじめた。

その結果、
ウイリアム・ボード
という水兵が、
石のあたりどころが
悪くて死亡した。

ペリーは、
石を投げつけた
住民たちを逮捕。
死罪にせよ、
と琉球王に要求。

琉球王は、
住民を逮捕して、
ペリー同席のもと、
裁判を行って、
八重山に流刑にした。

流刑になった者は、
妻を犯され、
息子を殺された被害者。

しかし、
加害者である水兵が
行ったことについて、
いっさい問題に
されなかった。


このようなことになり、
住民たちは
アメリカ人が来ただけで、
逃げていくようになる。


アメリカ兵も、
そんな所にいても
つまらないし、だんだん
いづらくなる。

一年の約束だったけれど
わずか7ヶ月で
江戸に戻ってきた。

今度は香港の
イギリス艦隊も連れて、
いきなり江戸湾に入るアセアセ



私もそうですが、
一年後に…と言われたペリーは
一度アメリカに帰って、
それから戻ってきたと
思っていたでしょう。

ところが沖縄で、
こんなにひどいことをしていた。
そういったことは
教科書にはいっさい書かれない。

こんな人たちと、
仲良く平和にやっていける
と思うことは、
とんでもないことだ
ということが
わかるでしょう。


一方、江戸では…

この写真には2つしか
写っていないけれど、


レインボーブリッジの近く、台場と呼ばれる所に三つ、
島がある。

これを、ペリーが
いなくなった直後から
つくりはじめていた。

江戸湾にペリーの艦隊が
入ってきた時に、
陸上から十字攻撃を
行うためである。

船は波の上で揺れるので、
ねらいが定まらない。

しかし陸上なら
固定されているので、
砲弾が当たりやすい。

こうして
やってきた艦隊を
撃滅できるように、
砲台となる島を
つくらなければならない。

そしてなんと!
潮の流れのある海の中。
何もないところに
三つの島を
半年でつくってしまった!

今のように、
便利な機械などなく、
全て手作業で!

モッコという道具で、
東京タワーの近くにある
山から土を運んできて
つくったそうですびっくりびっくりびっくり

 ※薬師沢石張水路工のページよりお借り


潮の流れる海に、今でも
ちゃんと残っている
人口の島を、どうやって
つくることができたのか。

江戸の幕末の土木技術が
いかにすごいものか
ということがわかります。

阿部正弘は、
江戸湾を守るために、
大名で分担をしたり、
開国は国の一大事。
諸大名や知恵のある者と
相談して、ペリーを
待ち受けていた。

ペリーたちが
空砲をぶっ放しながら
再び江戸湾に
やって来ると、
見たこともない砲台がガーン

こんなものに、
十字方向から
攻撃されてはたまらないアセアセ

そこで1854年、
横浜に上陸した。


ここで日本人は
またまたおどろいた。

アメリカ兵が、
きちんと整列して、
ザッザッと行進する。
そういう文化は
日本にはなかった。

ということで、
今回も何隻もの船が
江戸湾に入り、
空砲を打ちまくる、
という出来事があり、
自分がもし、
阿部正弘だったら、
どうするか?

A 開国する
B 鎖国を守る
 (戦争もやむなし)

という質問を
齋藤武夫先生は
学校の授業で子供たちに
すると、いろいろ意見が
分かれるそうです。

子供たちは
自分の考えを持ち、
その理由を言う。

子供たちは
このような議論を
楽しみにしている
ということなのですが…

戦争もやむなし
ということを子供に
選ばせるのはどうなのか。

ということで、
齋藤先生は大人たちから
多くの攻撃を
受けたそうです。

でも、こういう歴史が
本当にあったわけです。

日本は平和を守るだけで、
こちら側から
他国に侵略戦争する
という話ではないです。

好き勝手する強い者に
支配されないため、
先人たちが必死な思いで
戦ってきた戦争。

これを全否定するのは、
戦わずに支配されて、
ひどい目に合えばいい
と言っているのと同じ。

もし世界の先人たちが
戦っていなければ、
今の世界はちがうもの
になっていた。
ただ強い者が弱い者を
支配するだけの世界に
なっていた。

こちらがいくら、
平和を愛していても、
どうしても、
それをおびやかす者が
現れるのが現実。

そんな時にどうするか?
という議論は、これから
子供たちが生きていく
ために必要だと
私は思います。

また、昔から日本は
平和を愛する民族で、
試行錯誤してきた
ということを
教えるべきです。

さて、阿部正弘が
どのような決断をしたか
ということは、
みなさんご存知ですが、
また次回に話を続けます。