今日は、歴史の流れを知るために、

斎藤武夫先生の、

こちらの本から学びます♪



織田信長→豊臣秀吉→徳川家康と、


最後に天下統一のバトンを

受け取って、

250年の「徳川の平和」

打ち立てることになった、

徳川家康のお話ですニコニコ




クイズ形式でお話が進みます♪


1582年6月2日に

本能寺の変がありました。

この時、徳川家康は

どこにいたでしょうか?


A 京都  

B 大阪(堺)  

C 愛知(岡崎)





答えはB


家康は、本能寺の変の時、

わすかな供を連れて、堺にいた

そして、奈良から伊賀に抜けて、

岡崎に逃げ帰った。


服部半蔵の率いる300人ほどの

忍者が家康を守った。


そのため、

信長の最大の同盟者であり、

いちばんの後継者と思われていた

家康だったけれど…


真っ先に京都にかけつけて、

信長のかたきをうった

秀吉に先を越されて

しまいました。



信長を討ったとされる明智光秀と、

秀吉との戦いである山崎の戦い





そのあと、

家康は天下をとろうと

秀吉と戦った。

◯か✕か?




答えは


織田信長の次男、

信雄(のぶかつ)と家康は、

「小松・長久手(ながくて)の戦い」で、

秀吉と戦っていましたが、




信雄と秀吉が和睦(わぼく)、

つまり仲直りしたので、

家康は浜松に引き上げます。


そして秀吉の臣下となり、

小田原城で北条氏を攻めた家康は、

秀吉から関八州を与えられ

江戸城に入る




1598年(家康57歳)

秀吉が亡くなる。

そして後を継いだ

豊臣秀頼に、家康は

すぐに戦いを仕掛けて

天下をとろうとした。

◯か✕か。





こたえは、×


少しずつ勢力を広げ、

味方を増やしていった。


そして、豊臣政権の末期に

政務にあたった五人の大名である

五大老の最上位となり、

伏見城で政治を担当


実質的な支配者だったけど、

豊臣秀頼の家来だった。


1600年(59歳)

関ヶ原の戦いが起きた。



西軍(豊臣方) 84000人

東軍(徳川方) 74000人





数の上では

豊臣方が優勢だった。



天下分目の戦いとなった、

関ヶ原の戦いは、

ほぼ互角。

午前中は、やや西軍が優勢。

しかし、東軍の勝利

に終わった。


勝負を決めた

一番の原因は何か?




A 新しい武器

B 裏切り

C はさみうち作戦




答えはB


小早川秀秋が、

西軍から東軍に寝返った。

それをきっかけに、

西軍は総崩れ。

徳川の勝利。


その結果、

豊臣秀頼は、

大阪城の一大名となる。



負けた大名の領地の多くが、

没収され、(661万石)

東軍の大名と

徳川の領地がふえた。


佐渡金山、

石見銀山などが、

徳川の直轄地(ちょっかつち)

となる。


この時に敗れた

豊臣方の二大勢力の

長州(毛利輝元)

薩摩(島津義弘)が

約260年後の明治維新で

徳川を倒すこととなる。



1603年(62歳)

天皇から

征夷大将軍に任命され、

江戸幕府を開く


家康も、

朝廷を滅ぼして、

日本の君主となる道を

選ばなかった。


源氏の棟梁(とうりょう)として、

天皇から征夷大将軍に任命され、

江戸幕府を開いた。


ここが重要ポイント!


徳川幕府が倒れた時、

天皇が国のまとまりの

中心にあったから、

大政奉還(たいせいほうかん)も

王政復古の大号令も

可能となった。

※政治の権力を朝廷に返すこと。

幕府がなくなっても、

日本がなくなることなく、

天皇中心にまとまる国にできた。



家康が徳川幕府の将軍

だったのは何年か?



A 2年

B 10年

C 12年





答えはA


1605年、将軍職を

秀忠にゆずり、

駿府城を築き、

隠居した。


しかし、将軍の父である

「大御所(おおごしょ)

として、第2代将軍、

秀忠を指導し続けた。


豊臣家は、

徳川家にしたがう

大阪の一大名として

生きのびた。

◯か✕か。



答えは、×


1614年11月

大阪冬の陣。

翌1615年5月

大阪夏の陣。


豊臣家は滅びた。


大御所としての最大の仕事は、

豊臣家を滅ぼすことだった。


翌1616年、

「一周忌の後、日光山にまつれ」

と遺言(ゆいごん)を残して死ぬ。


家康は、

日光東照宮に、

東照大権現(神)として

まつられた。