今回は、元寇(げんこう)について
時系列で見たいと思います
今日は家村和幸先生のお話から♪
チンギス・ハンによって
統一されたモンゴル民族は、
孫のフビライ・ハンまでに、
史上最大の帝国をつくりあげた
そして1268年には、
第三回目の南宋への
侵攻を始めた
その直前の1267年9月、
モンゴル帝国の属国となった
高麗の国王が、
日本に使者をつかわして
フビライの国書を送った。
しかしそれは、日本の天皇を
元の皇帝よりも下位に置き、
武力行使をちらつかせながら、
おどすという、たいへん
無礼なものであった
翌1268年、鎌倉幕府は
朝廷と相談をして
元に返書をあたえず、
使者を追い返した。
その年の3月5日、
北条時宗が、18歳の若さで
第八代執権(しっけん)となり、
この国難に立ち向かうこととなる。
その後も、モンゴルや高麗の使者が
6回も国書を持ってやって来た
そうした中、フビライは、
対馬(つしま)で連れ去った
日本人を返してきたり、
政府の高い位である、秘書官を
国使として使わしたり、
いろんなことをしてくるけれど…
時宗はいっさい動じることなく、
フビライの目的は、
日本を元の属国にしようとするもの。
返書の必要はないと追い返す。
元の襲来を予想して…
鎌倉幕府は1272年2月、
九州に領地を持つ御家人に、
異国警固番役(いこくけいこばんやく)
というものを命じて、海岸沿いに、
情報収集の目を、はりめぐらす
もしも元の大軍勢が、日本に
上陸侵攻してきたら…
なんと約600年前に
白村江の戦いで、
日本が、唐と新羅の連合軍に
やぶれた時、
もしも唐と新羅が
日本に攻めてきたら…
ということを考えて、
その時に築いてきた
水城(みずき)とか、大野城
というものが、まだ残っていた
フビライは、とうとう
国書に書いてあった通り、
日本に武力をもってやって来る
1274年10月3日、
三万の軍勢が、朝鮮半島南端の
合浦(がっぽ)を出港する
そしてまず、
壱岐・対馬をおそった
対馬の守護代という役職以下、84騎、
壱岐の守護代以下、104騎、
死をかくごして戦うも、
みんな倒されてしまった
敵は博多湾の近くの
松浦というところに上陸して、
悪略非道(あくりゃくひどう)なことを
しながら東に進む
19日には博多湾に入ってきた
その日のうちに、博多湾の
今津というところに、
高麗軍の一部が入ってきた
10月20日、高麗軍は
百道原(ももちばら)に上陸
前の日に、今津に上陸していた
高麗軍と合流する
そして赤坂方向に進む。
これに対して、箱崎付近に
集まっていた日本軍の主力から、
ただちに菊池、竹崎などの
軍勢が派遣されて、
8時頃から激しい戦いをしていた
さらに、
百道原にひきつづき、
元軍の主力は、壱岐の浜に
さらに箱崎海岸に上陸した。
これを見た日本軍の総大将、
少弐 景資(しょうにかげすけ)は、
主力で壱岐浜に上陸した敵を攻撃
たちまち激しい戦いとなった。
ところが、ものすごい数の敵により、
内陸へと圧迫されていく
そのような中で、
大将の景資(かげすけ)自身も
矢を放ち、
敵の副司令官を負傷させた
戦闘は、日没と共に終息していく。
日本軍は、翌日の戦闘にそなえるため、
主力を水城まで下げた。
一方、赤坂での
竹崎、菊池勢が頑張ってくれて、
敵は、蒙漢軍と高麗軍が
合流できず。
しかも副司令官が打たれてしまった。
これで指揮が混乱
こんなに大変な戦いになるとは、
敵は考えていなかった
そのために矢が不足してきた。
このまま、日本軍に、
夜におそわれたら、たまらない
それをさけるために、
敵は全員、船の中に撤退
そしてそのまま、
合浦(がっぽ)に帰ってしまった
この文永の役の
日本軍の勇猛(ゆうもう)さに
元軍の大将は、このように
おどろいている。
絶賛(ぜっさん)に近い評価を下した
ということ
このような戦いがあって、
このような言葉が残っているなんて、
知りませんでした
今の学校は、
天候が悪くなったから、
ラッキーだったとか、
とんでもない教育ですね
日本軍は、
こんなに立派な戦いをしたのに
フビライは、まだまだ
日本征服をあきらめません
この続きはまたにします♪