私の身辺にいる臨床心理士(支援級かどうか決めるための書類を教育委員会に書く立場にある)の多くは、社会経験がない。

療育センターにいる職員も、療育センターにだけ勤務してきたという人がもっぱらで、普通の学校の教育経験がないだけではなく、一般社会での経験値がゼロである。

 

さて、こんな状況の中で、落ち着きのない子、指示の通りにくい子、を目の当たりにすると、口々に

「これでは受け入れてもらえない」

と判断されてしまう。。。。

 

「何に」受け入れてもらえないのか??

それが議論されることもない。

 

学校の先生に受け入れてもらえないのか?

友達に受け入れてもらえないのか?

社会に受け入れてもらえないのか?

その子が目指すべき世界で受け入れてもらえないのか?

世界のリーダーに受け入れてもらえないのか?

 

その客体は議論から省かれたまま

「これでは受け入れてもらえない」

と診断されてしまうのだ。

 

世の中において、クリエーターや研究職の人が一体どういう人であるのか、一度も見た事がない療育関係者にとっては、まさに一芸に秀でた人に対応ができないというのが現状である。

 

確かに、世の中を生きていくための最低限のマナーは心得ねばならないし、自分を主張するにも策は必要であろう。ただ、モンテッソーリ教育やシュタイナー教育、あるいは各国の教育に接したこともない療育者の中にとって

「黙って椅子に座って話を聴ける」

「自分の関心に忠実であるよりも、目の前で話をしている教師の指示に耳を傾ける」

ということが、何よりも重要な人生成功のカギだと思われているらしい。

 

公教育にも問題点がたくさんある。

けれども、その無償の教育を子どもに受けさせようとすると、どうしてもその地域に根付いた古い慣習を前提とする公教育に子どもたちを合わせなければならなくなる。

 

目の前の子どもの幸せとは古い地域慣習に基づく規律なのか、子どもの未来に向けた創造的な規律なのか・・・・ そろそろ本気で議論をしなければならないのに。

 

私はかつて職業訓練校で授業を受け持っていたことがある。

様々な社会経験を経た老若男女の集う訓練校では、前に立つ者の人間力で授業の流れが変わる。講義者は常にあらゆるパターンの質問と、様々な方向への講義拡散を想定して講義を計画しなければならない。講義中に起こる私語はそのまま

「あなたの講義はつまらない」

というメッセージであり、私は終始眼前の30名の動向、気配に気を配り続ける必要があった。

 

でもこれは、療育現場でも実際には必要な事なのではないだろうかと、最近特に強く感じる。