私が教員を目指そうと思い大学の選択を迫られた時、当時の高校担任から

「教師になりたいなら、教職につこうとしている”地元の大学”に行くべきです」

というアドバイスをもらった。

私は教員免許が欲しいとは思っていたが、できれば熱心な教授のもとで学びたいと思ったし、教育に関する様々な試みをしている進歩的な大学に行きたいと思っていたので、”地元”という言葉は理解できず、結局教員免許がとれる大学の中から自分が行きたい所に行く事にした。

 

ところが、いざ教員採用試験の時期になると、”地元”の意味がじわじわと理解出来始めた。

”地元”が意味していたのは”コネ”だったのである。

つまり、

「採用側が自分の後輩を採用したがる傾向は否定できない」ということである。

さらに私の場合は、某市の採用試験会場で、高校時代顔見知りだった同窓生(父親が町議)に会い、その場で

「私はもう採用が決まってるんだよ。お父さんから働きかけしてもらって、大丈夫と言われてるから」

と聞かされ、これに腹が立ち、教員を目指すことをやめた。(=2次試験をボイコットしてしまった)

 

あれから20年超。。。 その怒りの気持ちは忘れていたが、最近またフツフツと当時の怒りに類似した怒りを感じることがある。 それは発達センターにおいても同様の縁故採用(学閥採用)が当たり前のように横行している事に対するものである。

 

そもそも教育と学閥は相容れないものであるし、教育ほど教育者側の”人となり”が大きく物をいう世界はない。ましてや発達障害児、境界線児の教育においては、一刻の猶予もなく日夜新しいアプローチが模索されるべきであり、50年前の障害児教育を当てはめても役立たないことは山ほどある。しかし同じ派閥の大学から集められた人ばかりが集まると教育上必要なディスカッションはなくなり、定型のアプローチばかりがとられてしまう。

 

子どもを取り巻く環境は全て激しく変化し続けている。例えば住環境、食べ物環境、薬の環境、親の生活スタイルは50年前とは何もかも違う。

ただし、変わらないものもある。それは教育者が向き合うべきは「お金」や「目の前の利益」ではなく、「子どもたちの未来と可能性」ということである。この部分については、教育学者ペスタロッチやデューイ、フレーベルらからきっちり学ぶ必要もあるが、逆にこの部分については忘れ去られてしまい現在教育現場でペスタロッチの精神を語る人はほぼ皆無である。

 

また子どもたちをどの心理検査で判断するのかも世界各地、また日本各地で異なり、さらにその判断結果に即して、どのように効率良い教育を行うかについては、ほとんど議論がない。

 

派閥・学閥がある世界ほど進歩は望めないものなので、最も進歩的でなくてはならない領域では「派閥」「縄張り」は徹底して排除すべきである。

 

子どもの可能性が最大限に芽吹いて、1人1人が輝ける人生を送れるように、そのために効果のあった教育方法や食事療法の情報交換をしながら、大人も日1日と成長することが重要なのかもしれない。