聖徳太子=厩戸皇子が登場する系図をようやく作成できた。
昨夜いきなり思い立ってWordを立ち上げて作り始めたのだが、Wordからアメブロに『無料』で貼付できる形式に変換する方法も調べるなどしていたら、1時間以上を費やしていた。
ペーター渾身の力作である。
直線がカクカクしているが力作である
ところで今後当ブログでは聖徳太子のことを厩戸皇子とか豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)と呼んでいこうと思っている。
なんとなく、摩理勢さんが太子を豊聡耳皇子って呼びたがってるぽいからだ。
(逆に言うと「聖徳太子」称呼してみると反応がない)
というのも厩戸皇子を聖徳太子と呼ぶようになったはっきりした証拠は奈良時代以降にしか残っていないのだから、道理である。
話を系図に戻そう。
最下段中央の厩戸皇子のご両親をまずご覧いただきたい。
父・用明天皇と母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)は異母兄妹でありながら、双方の母親が同母姉妹でもあるので、母方で見ると従兄妹同士となる。
入力しているペーターも⬅こんな、なんで、読んでくださっている皆様にはもっと意味がわからないことであろう。
ただ要するに厩戸皇子は父から見ても母から見ても蘇我氏の血が濃くて、普通なら世代を下るにつれて低くなるはずの『蘇我氏の血』の含有率が両親と変わらないことを理解していただきたいだけなのだ。
この辺りの複雑な婚姻関係は稲目さんが欽明天皇との関係の中で築いたものと考えられる。
欽明天皇崩御の後、天皇家出身者の母を持つ敏達天皇が即位したが、15年程度で崩御。
後を引き継いだのは豊聡耳皇子の父の用明天皇だった。
しかしその用明天皇も在位2年で崩御する。
蘇我氏と物部氏の戦いを経て、勝利した蘇我氏が崇峻天皇を立てるが、彼は馬子と共同歩調を取ることができず馬子に暗殺されてしまったのだ。在位わずか5年。
朝廷が落ち着かない中、敏達天皇の正妃(大后)だった額田部皇女こと推古天皇が即位、20歳の豊聡耳皇子が皇太子として政を摂ることになった…というのが豊聡耳皇子登場までのざっとしたあらすじだ。
いわゆる聖徳太子伝説の中には蘇我氏と物部氏の戦いに参戦し、木彫りの四天王に戦勝の願をかけ、結果戦いに勝ったお礼に四天王寺を建立したとか、ローティーンの頃から色々あったことが語られている。
ただ、摩理勢さんが豊聡耳皇子と絡んだのはもうちょっと後からだと言うのた。
以下次号。