日本は令和という新しい時代を迎える。今回は、令和の時代こそ日本は進化論と決別し、「創造主であり親である神に帰れ!」と訴えたい。

 

 

本ブログでは進化論は人類の近代歴史において諸悪の根源であると書いてきたが、日本においても同様である。

 

まず最近、問題となった優生保護法。同法が施行されていた1948年から1996年までの間に、「国によると、不妊手術を受けたのは約2万5千人で、うち約1万6500人は本人の同意がない強制手術とされるが、手術実施の個人記録が残っているのは約3千人分にとどまる。」(西日本新聞)

 

本人の同意もなく、睾丸を摘出されて断種されたり、不妊手術をされたりして、結婚できない、あるいは結婚しても子供をもつことができないなどの苦しみを負わされた。今では薬で治療可能なハンセン病患者は隔離されており、重大な人権侵害だった。   

 

このようなことが国の指針の下で行われたのだが、その根源にあるのが優生学であり、進化論である。今回、救済法が成立したが、賠償額が不十分であったことだけでなく、進化論の考えが間違っていたことへの反省はない。進化論への反省もなく何も反省したことにはならないし、謝罪とはほど遠い。

 

本来ならば、不妊手術をした医師たちが責任をもっと問われるべきであるし、医学界のリーダーが謝罪するとともに、進化論、優生学が根本的に間違っていたと表明すべきところである。

 

 

 

『ダーウィニズム150年の偽装』や他のサイトでも指摘されているが、進化論と優生学は根っこが同じである。進化論は、生存闘争、自然淘汰によって生物も人間も進化、発展してきた、と言う。自然淘汰は、環境に適応したものが生き残るということだ。

 

しかし、ダーウィンの影響を受けた従妹のフランシス・ゴルトンは、遺伝的に劣った弱者が多くの保護を受けているという状況では自然淘汰が機能していないと主張。優良とみなされた者がより子孫を残すように奨励する一方、劣等な遺伝形質をもつとみなされた者が子孫を残すことを防ぐことを提唱した。進化論が根拠になって、優生学は世界に広まっていく。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/優生学

 

 一方で、ダーウィンが提示した進化論を熱烈に支持し、普及を助けたのが、帝国主義者たち。進化論は当時の帝国主義者にとって好都合であり、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルは胚の絵を偽造してまでダーウィンを応援した。帝国主義者は進化論を人類にあてはめ、弱肉強食、優勝劣敗の価値観でアフリカ、アジア、アメリカ大陸への進出を正当化した。

 

この帝国主義と優生学の流れを受けて、民族浄化を実行したのがヒトラーのナチスだった。幼い子供も含め600万人ものユダヤ人を次から次へと虐殺していくというのは、人間の普通の心ではできるものでない。進化論、優生学というものによって「科学的に保障されている」から可能になった集団狂気だと言える。

 

米歴史学者リチャード・ワイカート氏はこう述べている。

 

ダーウィニズムそれ自体がホロコーストを生み出したわけではない。しかしダーウィニズム、特に社会ダーウィニズムや優生学というその変種がなければ、ヒトラーや彼のナチ追随者たちは、世界で最悪の残虐行為の一つが道徳的に称揚されるべきものなのだと納得させるための、必要な科学的根拠を持つことはできなかったであろう。

 (『ダーウィンからヒトラーへ:ドイツにおける進化論倫理学、優生学および民族主義』)

 

 ユダヤ人大虐殺を引き起こした進化論、優生学を科学的根拠として日本の医学界を通して、実行されたのが、優生保護法による人権侵害だった。ハンセン病、ろうあ者など被害者は多数に及んでいる。「劣等な遺伝子は淘汰されなければならない」という、人間を家畜の品種改良のようにしかみない恐ろしい価値観によって実行に移されたのである。

 

なぜ、ヒトラーによる虐殺や第二次世界大戦という惨禍を経験しながら、進化論、優生学による過ちを繰り返したのか。戦後、日本が自らの過ちを深い次元で反省していなかったからである。

 

ダーウィンの進化論、優生思想は日本にいつ入ってきたのか。

 

ダーウィンが1859年に『種の起源』を発刊後、欧米世界で進化論が支配力を増す中で、明治維新を迎えた日本はそれを無批判に受容した。進化論が正式に日本に入ってきたのは、大森貝塚の発見でも知られる米国人科学者、エドワード・シルベスター・モースが1877年(明治10年)、東京帝国大学理学部で行った講義が始まりである。

 

長山靖生氏は著書『帝国化する日本』で、こう書いている。

 

明治期に受容されたのは、本当のダーウィン進化論というよりスペンサー流の社会進化論だったが、黒船来航で開国を強要され、競争社会の中で列強諸国に伍してゆかねばならなくなった日本にとっては自明の世界観だった。また国内的には、泰平をむさぼって衰微した徳川幕府を排除し、新政府の権力を占有した薩長藩閥を正当化する理論でもあった。「優勝劣敗」「適者生存」という形で単純化された進化論の理念は、そのまま「富国強兵」という国是、「立身出世」という個人目標とシンクロして理解され、その「現実適合性」によって、俗流の進化論は近代日本で急速に浸透した。

 

 

日露戦争(19041905年)の勝利で雰囲気が驕りに陥った大日本帝国は、韓国併合を通して韓国民族に対する植民地支配を行っていく。国における三要素、主権、国民、領土すべてに関して権利を奪われた状況での痛み、悲しみというのは計り知れないが、日本の陸軍が中心に韓民族の弾圧を進めた。「礼儀正しい」とも言われた、私達の先人が冷酷な人権蹂躙をなぜしてしまったのか。やはり、根底には、そうした行動を正当化させる科学、進化論、優生思想が当時の多くの日本人の心に定着していたからだと考える。

 

つまり、明治初期に知識人から政治家、民衆にいたるまで、「自分が優位に立ち、生き残るためには他者、弱者を利用したり、犠牲を強いたりしてもいい。そのように人類は自然淘汰を繰り返し、進化してきた」という価値観が浸透。それを背景に韓民族を劣等民族であるかのように見下して、韓国を支配していったのである。

 

 

 

戦後70年以上も経った今、日韓関係はかなり悪化している。文在寅政権の対応には韓国の友人からも「普通の韓国人はあんな風には考えてない」という声も聞かれる。

 

しかし、日本人として、未だに韓国からの批判がやまず、恨みが解けてないことの意味を重く受け止める必要がある。過去において日本が根本の価値観において何を間違えたのか。それは、進化論、優生思想を選択し、国家の指導層から庶民までがそれを受容してしまったことである。

 

原爆という最悪の結末を経験しながらも、その価値観を保持したまま戦後に入ったので、国内的には優生保護法によって悲劇が起きた。また、戦後は共産主義が世界と日本も大混乱に陥れたが、共産主義が拡大するのに、栄養を与え土壌を与えたのも進化論であった。共産主義は、「ブルジョア打倒」などと階級闘争を扇動して革命を起こしていったが、最終的には共産主義の盟主ソ連の崩壊によって、神なき平和運動は機能しないことが証明された。

 

日本の進化論教育は韓国にも影響を与えている。韓国からは日本にもたくさん留学してくるが、日本の大学で教えられるのは進化論であり、進化論を前提とした価値観である。精神的、文化的に韓国に対して日本の支配が続いていることは否定できない。

 

一方、進化論は世界的に家庭倫理崩壊の根っこにある。例えば、同性愛が日本にもかなり浸透してきており、家族の価値は危機にさらされている。同性愛に対しては、今までの「家族が大事だ」くらいのレベルでは対応できない。進化論の枠組みでは限界で、なぜ神は男性と女性に創造したのか、という根本的なレベルまで掘り下げたうえで、家族を強化していく以外に選択肢はないだろう。

 

今、平成が終わりを告げ、令和の時代。令は「美しい」という意味だけでなく、「大宝律令」にも入っているように、「きまり」という意味がある。しかし、最も根源的な意味は、神の言葉(み言)であり、神の愛である。

 

自然が調和した美しさを見せてくるのは、そこに秩序、あるいはデザインがあるからである。

 

満開の桜はもちろん感動だが、散りゆく桜も情緒を感じる。そして今は、緑が全開。そして足元にはツツジが鮮やかに咲いている。次から次への見せられる、感動の芸術。やはり、神は「最高のデザイナー」である。

 

聖書のヨハネによる福音書1章1節から5節には

 

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

 

 神はみ言によって宇宙と人間を創造した。み言とはデザイン、構想ももちろん含まれるが、本質は愛である。神は愛で、愛のために、宇宙と人間を創造したのである。

 

 神が創造した自然が教えてくれるのは、相手のために生きる愛である。自然の中に利己的に生きているものは何ひとつ存在しない。

 

神が創造されたのなら、その目的があるはずである。創世記に「生めよ」とあり、イエス様も「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。」とおっしゃっていることから、私達は、神の愛を育んでいきながら神に似たもの、「神の宮」になることが創造目的だと悟ることができる。

 

なんでもデザインされ創造されたものを使うときに、その目的を無視して使えば事故が起きる。車を運転して、創造目的を無視して海に突っ込んでいけば大変なことになる。

 

進化論が支配する文化、文明の中で、利己的にあるいは、利己的ではなくても、神と関係なくただ生きるため必死に人生を送ることが、神の創造目的から見てどうなのか、今、問われている。

 

 「美しい心をつくっていきましょう」。令和は万葉集からとられたということでそのように言われているが、掛け声だけでは、美しい心はできない。

 

 最近気になるのは、日本以外の国や人々を低く見ながら「やはり日本は優れている」とか言う自画自賛の声である。驕りは危険な兆しである。日露戦争の後に日本がどのような雰囲気になって過ちの道を転がり落ちていったのかを思い起こすべきだ。

 

令和の時代こそ人類を惨禍に陥れ、利己主義を助長する進化論と決別する必要がある。進化論は人間を愛の世界から遠ざけるからだ。

 

 前に書いたように、進化論者は皇帝ペンギンの愛の価値を無視して、「ざんねんな生き方」とまで言う。進化論は愛の起源を説明することもできない。進化論は、人間を含むすべての生物が命を守るために闘争して生きているという価値観だ。しかし、動物が感動的に教えてくれているのは、愛のために命を投入して命を犠牲にしているという姿である。

 

プラトンの洞窟の比喩で言えば、人間に影絵を見せている正体は、人間を洞窟の奥の愛の無い世界で虚妄に生きるように仕向けている進化論だ。

 

 毒に汚染された体も解毒すれば回復していくのと同じように、進化論と決別すれば、新しい道が開かれるだろう。

 

それは進化論者がありとあらゆるデタラメをいいながら否定してきた神の愛の世界につながる道である。神羅万象と人間を創造した、宇宙的な愛、神の愛と調和し、感動しながら生きる人生につながる道である。

 

日本は過去において過ちを犯した。過去を消すことはできない。しかし、何が過ちであったか、根本的に反省し、神に帰る道を選択するなら、「過去」も生かされ、被害を受けた相手とも未来をつくることができる。

 

日本は神を否定する進化論だけを教科書に掲載し続け、進化論を国営放送が宣伝し、国民を洗脳し続けてきた。国が主導して神を追い出し、神を痛めつけてきたのである。進化論と決別しない限り、神との本来の関係を取り戻していくことは難しい。

 

言い換えれば、進化論は神と人間の間に壁をつくってきた。そして、宇宙の本質は生存闘争、自然淘汰だと言って、人間同士の間にも壁をつくってきたのである。進化論がつくった虚妄の壁を打ち壊すべきである。

 

「神に帰れ!」。神に帰らずして、本当の世界平和も社会の平和、家庭の平和もない。令和にはそのような神からのメッセージが込められている。

 

 

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