ダーウィンのフルネームは、チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809年2月12日―1882年4月19日)。
ダーウィンが生きた19世紀の英国はどんな時代だったのか、ウィキペディアを見てみると、
19世紀のイギリスは工業化による生産力の増大により得た、圧倒的な経済力と軍事力で世界の覇権を握った。イギリスは時には武力をも用いて世界各国に自由貿易を認めさせ、イギリスを中心とした国際経済体制に世界を組み込んでいった(パクス・ブリタニカ)。この過程で、大陸国家である清やロシアと海洋国家のイギリスとの間に度重なる衝突が発生し、20世紀における世界大戦の遠因が形成された。
こんな時代に、ダーウィンは、最初、医学の道に進むが、麻酔なしでの手術が嫌で医師になることをやめ、ケンブリッジ大学に進み、教区聖職者をしながら自然史学を研究する計画だった。
当時のキリスト教世界では一般的な見方を描いたウィリアム・ペイリー著『自然神学』をダーウィンは読んだ。地面に時計が落ちていたら、当然、時計職人がデザインし造ったことを考える。それと同じように眼を含む多くの器官が目的をもってデザインされていることから、神によって創造されたのは明らかだというのが同書の主張である。
この部分は、ID理論に通じる部分だが、同書の前提は、生物は個別に創造され、種は変化しないということだった。
ダーウィンが探検したガラパゴス諸島のゾウガメ
しかし、ダーウィンは当時の地質学の本を読み、地球の年齢は数千年ではなく、数百万年(今は46億年)と推定していたことを知る。1820年代には、多くの地質学者が聖書の創造説を文字通りに解釈することを放棄していた、という。(『ダーウィンと家族の絆―長女アニーとその早すぎる死が進化論を生んだ』)
ダーウィンは地質学の代表的な本を読みながら、十分長い時間があれば生物種が自然の過程で少しずつ変化していったのでないかという方向に傾斜していったのである。
生物が個別に創造されたのでないなら、段階的な創造という可能性も検討しなければならかったはずである。なぜなら、当時もカンブリア紀の化石が見つかっており、生物は突然現れるというパターンがあることが認識されていたからだ。ダーウィンは最終的に神を排除し、人間を含むすべての生物を自然の過程で説明する進化論という結論に達する。
証拠が不十分であるにもかかわらず、なぜ、そのような結論を出したのか。ダーウィンがどのような思想の影響を受け、またどのようなことが起きて、そうなったのか、さらに見ていこう。

