不登校に悩む親御さんへ 家庭教師の大丈夫!@新潟のブログです。 -2ページ目

不登校に悩む親御さんへ 家庭教師の大丈夫!@新潟のブログです。

ご覧頂きありがとうございます。不登校に悩まれる親御さんが心の穏やかさを取り戻し、子どもたちが笑顔を取り戻してくれること、それが私の喜びです。不登校に悩まれる親御さんのお役に立てるよう、情報発信して参ります。

宮台真司先生の著書「社会という荒野を生きる」の中に何度も何度も繰り返し「社会の空洞化」というキーワードが出てきます。


「社会の空洞化」とはどのような現象を指すのでしょうか?その対極にある事例を参照することでそれが何であるかを明らかにしてみたいと思います。

例えば私が子どもの頃、姉が怪我を負い病院に入院し母も付き添いで家を数週間空けた事がありました。その時我が家の夕飯や私の保育園のお弁当を作ってくれたのは近所のおばちゃんでした。

祖父が亡くなり小3の冬に私は鍵っ子になったのですが、雪の降る夕方、学校から帰ってくると家の前の雪がキレイに無くなっていました。近所のじいちゃんが除雪してくれていたのです。

こんな風に私が子どもの頃は、親以外の周囲の大人も子育てに関与してくれていました。つまり社会が生きていたのです。

「親はなくとも子は育つ」という古諺の前提条件は社会が生きていることです。

今、私がご紹介したような助け合いの関係が急速に萎みつつあります。それが宮台先生が言うところの「社会の空洞化」ということです。

空洞化した社会では自分の問題は自分で解決することがルールです。私の嫌いな言葉「自己責任」というやつです。

例えば思春期の子どもが問題にぶち当たった時、それを解決する義務は家族に、もっと言えばその親にある。それが空洞化した社会のルール。

でも考えてみて頂きたいのですが、思春期の子どもが抱える問題の多くは「親から如何して自立を果たすか」という類のものです。

確かに部分的には可能かも知れませんが、この問題を親が全面的に手助けすることは原理的に不可能です。

だって全てを手伝ってしまったらそれは自立の未達成を意味するからです。

思春期とは親から距離を取り親から受け継いだ価値観を相対化するプロセスです。

そのためには親とは違う価値観を持つ大人と接する必要があるのにも関わらず、空洞化した社会ではそれが中々叶わない。

だからいつまでも親の価値観を深く内面化させたまま、その中に閉じ込められ生きるより他なくなってしまう。

つまり親以外の大人が子どもの育ちに積極的に関与しない空洞化した社会では、「親からの自立」は非常に達成困難な仕事になってしまうのです。

文科省の最新の調査によれば、現在日本では不登校の児童生徒数が19万6千人を超えているそうです。

すべての事例をそうだなどと思い上がったことを述べるつもりはありません。

しかし不登校の数割はこの「社会の空洞化」が関与している現象なのではないでしょうか?

お子さんが不登校になった時、多くのお親御さんは「私が悪かったから」とご自身を責められる場合が多いですが、私はそれは違うのではないかと思います。

悪かったのは個別の「私」ではありません、「私たち」です。

社会の空洞化を座して眺めていただけだった「私たち」の責任、つまりその責任の一端は私にもあります。

だからどうぞお子さんの不登校に悩まれる親御さんはご自身のことを責めないで下さい。

社会の空洞化が子ども達の自立という仕事を難しくしている、それは個別の誰かのせいなどでは決してありません。

ここまでの話をまとめます。

社会が空洞化したことで、外部の大人と接する機会が激減したため親の価値観を相対化することが出来ず、それが子ども達の親からの自立を困難なものにしている。

不登校というのはその困難の一つの現れではないか。だからお子さんが不登校になった時、ご自身を責めないで欲しいのです。

それは社会の空洞化が引き起こしたこと、個別の誰かが責めを負うことではありません。

社会の空洞化に対してどのような処方箋があるか?私はその問いに答えるだけの知恵を持ちません。

ただ、今までそこにあったものが今まさに壊れつつある、という自覚症状を持つことが処方箋に辿り着くための第一歩だと思います。

もし子ども達が不登校という振る舞いを通じて私たち大人に社会の機能不全を伝えてくれているのなら、それに応えないわけにはいかない、私はそう考えます。