前回の記事では、留学先のロンドンで神経衰弱に陥った夏目漱石が、
「自己本位」という言葉を手にして自己超克を果たした、というエピソードを引用して、
自己破壊的で別の価値観へと越境する学びとはどのようなものか、ご紹介しました。
自分を壊す学び、別の価値観へと越境する学び、
そんなものは夏目漱石のような高明な学者先生にだけ必要な話で私たち一般人には関係ない、
そんなご意見もあるかもしれませんが、決してそんなことはありません。
なぜなら、夏目漱石は、明治維新以降、つまり近代化以降、多くの日本人が苦しむことになる問いに、
ロンドンという異境の地で先んじて苦しんだ人だったからです。
ところで近代化とは何でしょうか?
近代化とは、一口に言えば合理化のことです。
物事の是非を論理に基づいて判断する、それが近代化された世界のルールです。
明治維新以降、この近代化=合理化によって、
それ以前の日本人が依って立っていた様々な価値観が崩れ去ることになります。
近代化以前の日本人の行動を規定していた価値観、
例えば村落共同体のルールや宗教的教えなどは、必ずしも論理に基づいてそう定められているわけではなく、
前例踏襲的に、経路依存的にそのように決まっているものが多かった訳ですが、
そのような価値観は近代化=合理化の名の下に次々と無力化されていくこととなります。
この近代化に伴う価値観の崩壊過程を、宗教社会学者のマックス・ウェーバーは「脱魔術化」と名付けました。
村の掟や宗教の教えは、確かに人の行動を狭め苦しめるという一面もありますが、
他方で、その縛りがあるからこそ人は悩まずに生きていけていた面もあったのです。
そのような自分が今まで頼って生きてきた価値観が崩壊してしまえば、人間は何を拠り所にして良いか分からなくなります。
そんな脱魔術化された時に襲ってくるのが、まさに漱石がロンドンで抱え込んだ苦しみです。
漱石は、東洋と西洋の二大文明を統合せしめ、その実績を持って日本の国威を世界に発揚する、
という大きな国家目標を胸にイギリスに渡った訳ですが、そこで文学者としての自分の無力を痛感し、
一体何を拠り所にして生きていけばいいか分からなくなった、
国家目標という大きな物語から切り離された宙ぶらりんの個になってしまった。
その結果として極度の神経衰弱に陥ってしまった訳ですが、
その苦しみを後追いするように、近代化され従来の価値観から切り離された日本人もまた、
宙ぶらりんの個としての苦しみを感じるようになるのです。
今までは、所属する共同体のルールに従って、帰依している宗教の教えに従って生きていれば良かったものが、
近代化=合理化によってそのような価値観から切り離され、自分は一体何者なのか分からなくなる。
自分を規定する物語が既に用意されていた世界から、
独力で一から生きるための物語を作り上げていかなければならない世界へと、
近代化以降の日本人は強制的に引っ越しさせられることになったのです。
近代化によって縛りでもあり支えでもあった価値観が無力化し、
「私は一体何者なのか?」という問いに一人一人が答えなければならない時代になったわけですが、
それから150余年たった今を生きる私たちが、その問いに対する明確な答えを見つけたかと言えば、
決してそんなことはありません。
一緒に学習する中高生からは進路の悩みをたびたび聞かされますし、
本屋に平積みされている今売れ筋の本などを見ていても、
まだ私たちは「私は一体何者なのか?」の答えを探し続けているように感じられます。
そして私はこの問いに対しては、単一解を以て決定的に答えるというのは無理だと考えます。
私たちは、問われるたびに新たに答え続ける、という仕方でしかこの問いに対処できないと考えます。
なぜなら私たちを取り巻く状況は常に変わり続けるからです。
どんなに固定的で不変な自分でありたいと願っても、
明治維新期の日本人がそうであったように、変化は否応なく私たちの身に到来します。
例えば今まで学生だったけど社会人になるとか、
結婚して子どもが生まれて親になるとか、
病気になって今までできていたことができなくなるとか、
テクノロジーの進化によって自分の仕事を奪われるとか、
様々な変化が私たちの身に訪れます。
だからそれに応じて私たちは自分を変えていかなければならない訳です。
そこで必要なのが、自分を壊す学び、別の価値観へと越境する学びです。
ここで話がやっと「学び」に戻ってきました。
話が長くなってしまいましたのでここから一気にまとめます。
偏差値の高い大学に入って大企業に入れば一生安泰、そんなキャリアパスが崩れ去った今、
学ぶ価値などないのではないか?という問いに答えるところからこの論考は始まりました。
私からの答えは、学ぶ目的は社会的上昇を果たすというただそれだけではない、というものです。
近代化以降の脱魔術化された世界で生きる我々にどこまでもつきまとってくる「私は一体何者か?」という問い。
この問いは、ある固定的な解を以て一度答えてしまえば終わり、という類いのものではありません。
なぜなら私たちは常に変化にさらされて生きているからです。
だからどんなに個人的にずっとこのままでいたいと願っても、私たちを取り巻く環境は決してそれを許してはくれません。
問答無用で次から次へと様々な変化が私たちに到来します。
そして、そんな世界で絶えず「私は一体何者か?」という問いに答え続けるためにこそ、
既存の自分を壊し、新しい自分へと越境するためにこそ、人は学び続ける必要があるのです。
仕事を通じて、子どもにそんな深い学びを提供できるよう、
私もまだまだ自分を壊して、越境して生きていきたいと思います。
長々と最後までお読み頂きありがとうございます。