前回の記事では、子どもたちが時々口にする「勉強なんかしたって意味ない」という言葉について考えてみました。
勉強して、偏差値の高い大学に入り、大企業に就職し、そこで定年まで勤め上げる、という生き方が無効になった今、
いい高校、いい大学に入るために、勉強することになんの意味があるのか?
言葉の解像度を上げれば、「勉強なんかしたって意味ない」という発言の意味は、きっとこんな感じなのだと思います。
日本の国が今急速に世界の中で存在感を失いつつあり、今後しばらくその地位が沈み続けていくであろうことを考えれば、
私も、功利的な理由で、社会の中でポジションを得るために学ぶことには、あまり意味がないのではと考えます。
沈みゆく船の中に、一等席も二等席もあったものではないからです。
だからその意味合いにおいて「勉強なんかしたって意味ない」には深く同意します。
ただ、人が何かを学ぶ理由とは、そんな功利的な理由ばかりなのでしょうか?
もちろんそういう人がいることも知っていますし、そういう動機があることを私は否定しません。
でもそれだけではなく、学ぶことから人はもっと根源的なものを得ている。
私はそう考えているからこそ、この仕事好きだし、この仕事を続けている訳です。
今回はその「根源的なもの」の何たるかを考えてみたいと思います。
先日、哲学者の千葉雅也先生の著書「勉強の哲学 来るべきバカのために」を読んでいました。
その中で、勉強するとは自己破壊である、という事が述べられています。
一部引用します。
“勉強とは自己破壊である。
では何のために勉強するのか?
何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?
それは「自由になる」ためです。
どういう自由か?
これまでの「ノリ」から自由になるのです。
(中略)
勉強とは何をすることかと言えば、それは別のノリへの引っ越しである。”
人間は誰しも、今いる環境に染まり、その価値観を内面化することで日々をどうにか生きています。
でもその価値観、ノリの中で、息苦しさを感じたとき、そこからから自由になるために、
別の価値観へと引っ越すために人は勉強をするのだ、と千葉先生は主張します。
そしてその引っ越しのときに、別のノリへと架橋してくれるのが言葉である、というのです。
再度引用します。
“一般勉強法とは、言語を言語として操作する意識の育成である。
それは言語操作によって、特定のノリと癒着していない、別の可能性を考えられるようになることである。”
一部分だけの引用ではその意味をなかなかとらえきれないと思うので、私なりの解釈を述べると、
慣れ親しんだノリの中で使われている言葉を懐疑し、またはその意味を拡張することで、
今とは別の可能性を描き出すことによって、別のノリへと越境する、
そのために人は勉強するのだ、ということです。
今までの話をまとめれば、
「勉強する」とは、または「学ぶ」とは、前回言及した「シグナル獲得のための勉強」のように、
今の価値観またはノリにより良く順応するために行うものではなく、
言葉によって今自分が依って立っているノリを懐疑し、その価値を揺らがせて、
今の自分を一度壊すことであり、別のノリへと越境することなのです。
この学びの自己破壊性について武道家で思想家の内田樹先生は以下のように述べています。
“人はものをしらないから無知であるのではない。
今自分が用いている情報処理システムを変えたくないと思っている人間は、進んで無知になる。
自分の知的枠組みの組み換えを要求するような情報の入力を拒否する我執を、無知と呼ぶのである。”
人が何かを学ぶことを忌避するのは、新しく何かを知ってしまうと、今の自分を一度解体せざるを得なくなるから。
だから人は怠惰によってではなく、「知ろうとしない」というたゆまぬ努力の成果として無知になる。
人がそのような努力をし続けられるのは、学ぶという営みが持つ自己破壊性ゆえ、ではないでしょうか。
ちょっとこのままだと話が抽象的で、分かりづらいと思います。
私はこの「学びの自己破壊性や別のノリへの越境」という話に触れたとき、夏目漱石のある講演のことを思い出しました。
次回はその内容から、学びの自己破壊的性や越境することについてより具体的に考えてみたいと思います。
続きます。