だからといって動けない子どもに向けて
「そうだ、そうだ、何でもいいやってみろ!」
と煽っても、子どもが動き出すことはありません。
動けないのも、動けるようになるのも、理由があるからです。
今の仕事を自分で立ち上げる前、私は会社での仕事が終わってから、
とあるフリースクールにお邪魔して、そこで子どもたちと一緒に学習をしていました。
当時の私は仕事にやり甲斐を見出せず、当然会社にも居場所を見出せず、モヤモヤとした感情を抱える毎日でした。
そんな時に、数時間ですが子どもたちと言葉を交わしながら一緒に学習をする機会を頂いて、
その時間が当時の私に役割や存在する意味を与えてくれていたのだと、振り返って思います。
それはさて置き、ずっと一緒に学習をしていた高校生の子が、進学とともに新潟を離れることになりました。
自分の進学先が決まってからは、フリースクールのスタッフとして中学生の勉強を見てくれていました。
その子に寄せ書きを渡したいと考えて、生徒、スタッフみんなでそこにあれこれとメッセージを綴りました。
お世話になっていたフリースクールの主宰の先生は、私が子どもたちとの関わり方について様々教えて頂いている方なのですが、
先生は一体どんな言葉を書くのかと気になって、私は横目でチラチラと見ていました。
その言葉はとても短いものでした。
「困ったときはいつでも戻っておいで」
私は、これから旅立つ人間に最も必要な言葉だと思いました。
旅立つために必要なものとは何でしょうか?
それは逆説的ではありますが、「戻れる場所」です。
そういう場所があって初めて、人は傷つくかもしれないリスクを負って、
不慣れな場所に一歩踏み出していけるのです。
逆にそういう場所がなければ、不安でうずくまり動けなくなってしまうことでしょう。
そんな場所を今私たちは子どもに与えられているでしょうか?
社会心理学者の加藤諦三先生は、その著書の中で、
「日本は学校も家庭もまるで会社のようになっている」
という旨のことを書かれています。
どういうことかというと、子どもを「そこに存在すること」で、ではなく、
「何かを為すこと」で初めて認めるような社会になっている、という意味です。
具体的には、先生の言うことを聞いた時だけ注目を向けてもらえる。
親が近所に自慢できるようなことをした時だけ、存在を承認してもらえる。
まるで学校や家庭が能力主義の会社のようになっている、ということです。
会社が能力主義的であることに何の問題もありません。
会社というのはそういう組織なので、能力主義的であるのは当然です。
しかし学校や家庭は会社ではありません。
学校や家庭は、子どもが為したことに基づいて、評価、格付けを行い、賞罰を与える場ではないのです。
でも、そのことが忘れられようとしているのが、今という時代です。
小さい頃から、存在に対する肯定を与えられず、評価にばかり晒されていたら、
まだ力を持たない子どもたちが、
「評価されなくなったら自分はどうなってしまうのだろうか」
「いつまでも周りの期待を満たせるだろうか」と、不安を抱き、
その不安ゆえに自分を取り巻く環境にコミット出来なくなる、動けなくなるのは自然なことだと思います。
それは亀が敵に襲われた時に殻に閉じこもることと似ています。
周囲が不安だらけだからじっと身を固くして自分を守ろうとしている。
動けなくなる子たちの背景にはこのような構造があるように私には感じられます。
大人が子どもにまず伝えるべきことは、
「勉強しろ!」でも「手伝いをしろ!」でも「もっと頑張れ」でもなく、
「あなたがそこにいてくれることが嬉しい」という存在に対する祝福です。
だから「いつでも戻っておいで」が旅立つ者の背を優しく押してくれるのです。
そういうメッセージの欠乏が動けなくなる子どもを増やしているのではないか。
私はそのように考えています。
動けない子どもに必要なもの、人が未知の環境に旅立つために必要なもの。
それは、「何かあっても帰れる場所」であり、
「『あなたがいてくれて嬉しい』という存在を祝福するメッセージ」です。
私はこの文章を一段高い場所に立って、
「私がいいことを教えてあげましょう」
などという気持ちで書いているわけではありません。
この文章は私自身に向けたものでもあります。
私にも息子が一人いますが、いつも存在を祝福するメッセージばかりを手渡せている訳ではありません。
ついついきつく叱りすぎて、後から反省して子ども謝ることも多々あります。
何故私たち大人は、子どもたちに祝福のメッセージを送れなくなってしまうのか?
長くなりましたので、続きは次回に。