教育とは子どもの成熟を手助けすること。
成熟とは複雑化すること。
昨日とは違う自分に生まれ変わること。
今読んでいる途中の内田樹先生の本の中の言葉です。
「複雑化の教育論」 内田樹 著
「複雑化すること」とは自分の中にある価値判断の物差しの数を増やすこと。
だから「学校の勉強の成績」という過大評価されがちな物差し以外の物差しを子どもに与えることが教育なのだと私は考えます。
でも世間が強要してくる物差しから人を自由にしてくれるのは、学校の勉強から得た知識であったりもするわけです。
教養=リベラルアーツというのは、人をとらわれから自由にしてくれる知識という意味ですよね。
ただ、共通テストがらみの事件(東大前で受験生を切りつけた事件、問題流出事件)を見る限り、
学校の勉強は、人を自由にしてくれるより、単一の価値観に縛り付ける方に作用している気がします。
ここで考えてほしいことは、学校の勉強の成績で人が蔵するありとあらゆる魅力、能力、才能を測り取ることは出来ない、ということです。
例えば歌の上手さや料理の上手さや性格の良さを主要5教科の成績で測り取れないことからも、それは明らかです。
イギリス経験論の父、フランシス・ベーコンは「知は力なり」という言葉を残しました。
人は自分が知っていることについてしか考えられない生き物です。
だから本来「知っていること」、つまり知識は大いに人を助けてくれるものなのです。
大切なのは「知識の多少」に付随する他者評価に振り回されるのではなく、
自分が生きていくために、一緒に生きていく仲間を利するために、知識を利用することです。
学校の勉強の成績なんて決して万能の物差しではない、だから振り回されるな、だけど大いに利用しろ。
こういう話を伝えることも子どもの複雑化、つまりは成熟を後押しすることになると思うので、これからも伝えていこうと思います。