学習法には、様々な種類があります。
私も仕事柄、色々な本を買い漁って調べ、実践もしてきました。
しかし、どんな種類のものであっても万人に通じるものはありません。
認知の仕方には人それぞれの特性があることからもそれは明らかです。
方法論のレベルで言えば、万人に通じるものはありませんが、
もう一段高いレベルでは、私の知る限り万人に通じることがあります。
それが「力ある者が抱く前提」です。
子どもたちと学習していて感じるのは、
「周囲の大人がその子に抱いた前提が、その子が自身に対して抱く前提になる」
ということです。
自分で書いていても混乱するような書き方なので、具体例を示します。
「自分は〇〇な人間である」
この〇〇に入るのが自分が自分に抱く前提です。
自分は優しい人間である。
自分は正義感の強い人間である。
自分はだらしない人間である。
これらは自分自身に抱く前提です。
大人になればなるほど、自分自身に対する前提が出来上がり、自己像が強固になっていきます。
しかし、子どもはまだ自分に対する前提が未確定な存在です。
「自分は〇〇な人間である」の〇〇があやふやのままなのが子どもです。
そして、この〇〇に何を入れるべきかを子どもたちに決めさせる存在がいます。
それがその子の周囲の大人です。
例えば、周囲の大人から、「困った子」とか「悪い子」という前提を持たれている子どもは、
やがて自分自身に対して「困った人間」とか「悪い人間」という前提を持つに至るでしょうし、
周囲の大人から、「可愛い子」とか「大切な子」という前提を持たれている子どもは、
やがて自分自身に対して、「愛されている人間」とか「大切な人間」という前提を持つに至るでしょう。
つまり、周囲の大人がその子に抱いた前提が、やがてその子が自分に抱く前提になる、ということです。
自分は悪い人間、ダメな人間という前提を持つ人間は、その前提に従って振る舞い、
より一層、悪い人間、ダメな人間という前提を強固にしていくでしょうし、
自分は愛されている人間、大切な人間という前提を持つ人間は、その前提に従って振る舞い、
より一層、愛されている人間、大切な人間という前提を強固にしていくことでしょう。
このように、抱えた前提がその前提をさらに強固にするならば、
周囲の大人が抱く前提は、その子の人生にとって呪いにも祝福にもなり得る、ということです。
前述したように方法論のレベルでは、万人に通じるものはありません。
しかし対し方という一段高いレベルで考えた時、
この「力持つものが抱く前提」というのは万人に通じることだと私は考えています。
昨日も授業中にこの話を裏付けることがありました。
個人情報に関わることなのであまり詳しくは書けませんが、
ある事柄が分からないという状態がしばらく続いていた子が、昨日そのことが分かるようになりました。
昨日の出来事もこの「抱く前提」で説明出来ます。
教える側は「この子なら分かる」という前提で接し続けます。
するとその前提がその子に伝わり、その子も「自分ならきっと分かる」という前提を抱くようになります。
教える側が「きっと分かる」という前提を持ち続けていれば、
様々な事例を示したり、例え話を用いたり、言葉を尽くして説明しようとします。
すると結果として子どもは分からないことが分かるようになります。
そして、自身に対する「自分なら分かるはず」という前提をより強固にしていく。
これが昨日の授業中に起きたことです。
このように「良き前提」は好循環を生み出しますし、その逆の前提は逆の循環を生み出します。
学習の方法論も確かに大切ではありますが、それよりも一段高いレベルで大切になってくるのが、「周囲の大人が抱く前提」です。
高校時代、私は担任の教師から「お前は箸にも棒にもかからない人間だ」と言われたことがあります。
力持つ者が投げつけたこの呪いの言葉を拭い去るのに、私はその後随分苦労しました。
力を持つ立場の人間が、まだ力を持たない人間に対してそんな言葉を発して良いはずがありません。
一方で、「あなたはやれば出来る子だよ。分からないことがあればいつでも聞きにおいで。」と、
私の可能性を信じて温かい言葉をかけ続けてくれた先生もいました。
このような体験をしてきたからこそ、私はこれからも子どもたちに「良き前提」を植え付ける存在でありたいと思います。
今日の話をまとめると、個別の方法論よりも前にまず省みるべきは、自身が子どもに抱く前提。
お子さんと接する際に、思い出して頂けたら幸いです。