私が15歳の頃に起きたオウム真理教による無差別テロ事件。
あの事件を計画・実行したのは、慶応大学、早稲田大学、東京大学、大阪大学など日本でもトップクラスの難関大学卒業者たちでした。
私がとても不思議に思うのは、そのように高学歴であるにも関わらず、なぜ当時子どもだった私が見ても気づくほど如何わしい教祖にたやすく騙されてしまったのか、ということです。
私は仕事柄、東京大学までは無いにしろ偏差値の高い大学に入るための手伝いをすることが度々あります。
だから、この疑問に対して何かしら自分なりの納得解を得たいと思いました。
そういう訳で手に取ったのが、村上春樹さんがオウム信者、元オウム信者に対して行ったインタビューをまとめたこちらの一冊です。
「約束された場所で」 村上春樹 著
この本は、8人のオウム信者または元信者に対して村上春樹さんが行ったインタビューと、村上春樹さんと臨床心理学者の河合隼雄さんの対談との二部構成になっています。
インタビューでは、それぞれの信者、元信者が、家庭環境、幼少期、学生時代、オウムに入信した経緯、内部での様子、地下鉄サリン事件当時の様子、そして現在などについて語っています。
インタビューの内容自体は、総じてそれほど興味深いものはありません。あくまでも私感ですが語り手の顔が見えない定型的な話が延々と続く印象を受けます。
綴られている言葉に奥行きがなく、においや表情、手触り、発する熱量など、その人のその人らしさのようなものが感じられない、とても無表情な言葉が並んでいます。
発する言葉が無表情であることに加えて、彼らの言葉の中に、私には他に二つの特徴が感じられました。
一つは、過度に理想主義的であること、もう一つは人間関係の希薄さです。
彼らの多くは、現実世界の人間関係や矛盾に嫌気がさし、純粋で理想的な世界を追い求める過程で、オウムと出会い、その世界に引き込まれていきます。
河合隼雄さんはあとがきの中で、オウム信者を「良い子の箱に閉じこもって」「良いことにとりつかれた人」という言葉で表現していますが、矛盾に耐える力が弱いのが彼らの特徴であると私は感じます。
一人の人間の中には、様々な人格要素が同居しています。
正義感の強い自分、純粋な自分、思いやりに溢れた自分も確かに自分の中に住んではいますが、その一方でずる賢く自分勝手で計算高い自分もまた自分の中に住んでいます。
例えば道を歩いていて500円玉が落ちていたら、「ポケットに入れちゃおうかなぁ」「ダメだちゃんと交番に届けよう」と自分の中に住む矛盾する人格要素の間で葛藤するのが人間です。(もちろん私は交番に届けますが。)
そういう様々な矛盾した人格要素の集合体がこの「自分」という生き物であるはずなのに、良いことにとりつかれ、良い子の箱に閉じこもり、自分の中に矛盾を抱えて生きることを拒む、というのが本書の中で出会ったオウム信者の特徴であるように私は感じました。
本書のあとがきで、村上春樹さんは地下鉄サリン事件の実行犯の一人である林郁夫について以下のように述べています。
“でも実を言えば私たちが林医師に向かって語るべきことは、本来とても簡単なことであるはずなのだ。
それは「現実というのは、もともとが混乱や矛盾を含んで成立しているものであるであるのだし、混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもう現実ではないのです」ということだ。
「そして一見整合的に見える言葉や理論に従って、うまく現実の一部を排除できたと思っても、その排除された現実は、必ずどこかで待ち伏せしてあなたに復讐するでしょう」と。“
村上さんの表現をお借りするならば、人間というのは、もともとが混乱や矛盾を含んで成立しているものだし、混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもう人間ではないのです。
自分たちの中から混乱や矛盾を排除し、教祖の教えに盲従してしまった彼らはもう人間ではなく、だからこそ人間とは思えないようなことを実行してしまったのではないでしょうか。
それではなぜ彼らは過度に理想的であろうとしてしまったのでしょうか?
私はそこにもう一つの特徴である、人間関係の希薄さが関わっているように感じました。
彼らが過度に理想的な自分であろうとしてしまった理由は、社会にとって理想的である自分以外を、重要な他者から許してもらった経験が少ないからではないでしょうか。
それは受容体験と言い換えてもいいと思うのですが、例えば高校時代の私のようにテストで赤点取って帰ってきた時に、「まぁ次頑張ればいいよ。学校の勉強がすべてじゃないし。」と声掛けしてもらうような、
必ずしも理想どおりには振舞えない、至らなさを抱えた自分を誰かから許してもらった経験が少ないから過度に理想的である自分に固執してしまったのではないか、という事です。
また、人間関係の中に身を置けば、いつもいつも自分の理想どおりに事態が進むわけではないことが分かってきます。
自分の理想と誰かの理想がぶつかり、落としどころを探してみた結果、どちらにとってもあまり理想的ではない、同程度に不満が残るような解しか得られない、などという事が頻繁に起こる。
そういうことが体験を伴って理解できるようになり、その中で折り合いをつけながら生きていけるようになるはずです。
人間関係の希薄さゆえに、そんな受容体験と矛盾の中で生きる体験を潜り抜けることが出来なかったからこその理想主義的な傾向性なのではないか。
私にはそんな風に感じられました。
自分の仕事にまだまだたくさんの不十分さを抱えていますが、その中の一つが人間関係の問題です。
出来るだけ様々な視点で子どもたちに語り掛けたいと思ってはいるものの、自分一人で関わっているとどうしてもそこには限界があります。
核家族化、地域コミュニティの希薄化で、親や学校の先生以外の大人の声が子どもたちに届きづらい世の中になっています。
そういう社会状況の中で、受容や葛藤の体験をどう担保するのか、それが自分の仕事が抱える課題の一つだと本書を読んで改めて感じました。
今までオウム信者の特徴とその理由について考えてきましたが、彼らの抱える特徴というのは決して彼らだけに限ったものでもないとも思います。
若者は往々にして理想主義的だし、人間関係の希薄化は親元を離れ一人暮らしを始めれば、誰もが通過しなければならない状況です。
例えば親元を離れて一人暮らしをしていた10代の後半から20代の前半、青年期特有の不安定さを抱えていた時代に、
オウム的な何かに出会っていたら、もしかしたら自分もその力に吸い込まれてしまったのでは、と思う自分もいます。
そういう不安定さを抱えやすい時代に、オウム的な何かではなく、それ以外の人的受け皿があれば、彼らは矛盾の中で葛藤しながら成熟して行けたのではないでしょうか。
社会にそういう受け皿が無かったことが、やはりこの事件の一番の原因なのだと私は思います。