夏休みも終わり、新学期がはじまりました。
この時期は、学校に息苦しさを感じている子どもたちが、そのつらさから自死してしまうことが多くなる時期なのだそうです。
行きたくないけど、行かなければいけない。
この先自分はいったいどうなるのか。
プレッシャーと先の見えない不安から、自死を選んでしまうのかもしれません。
私自身が学校が苦手で、高校三年間はなんでこんな窮屈な場所にいなければならないのだ、と毎日嫌で嫌でたまりませんでした。
だから夏休み明けの憂鬱な重苦しい気持ちが本当によくわかります。
死にたくなるほど、嫌ならば学校に行かなくてもいい。
私はそう思います。
なぜなら、学校で得られるものは、学校以外の場所でも得られるからです。
例えば、学習したいのならば図書館に行って本を読めばいいし、塾や家庭教師を頼んでもよいと思います。
社会性を身につけたいと思うのならば、アルバイトをしてみればいいと思います。
もし、アルバイトに採用されないならば、ボランティア活動に参加すればいいでしょう。
高校を卒業していなくても、高卒認定試験を受ければ、大学でも専門学校でも進学できます。
実際に、私が関わった子にもアルバイトしながら高卒認定試験を受けて進学した子がいます。
学校で得られるもののうち、学校でしか得られないものもあるのかもしれませんが、学校以外の場で得られるものもたくさんあります。
学校に行かないからといって、人生の選択肢が狭まるわけではありません。
何も絶望することはありません。
先日読んだ堀江貴文さんの著書、「すべての教育は『洗脳』である」の中で、学校というものが作られた理由が述べられています。
一定年齢に達した子どもを一か所に集めて学問を教えるという今のような形の学校が作られたのは、産業革命期のイギリスです。
大きな工場がどんどん作られ、劣悪な環境下で多くの子どもが労働に従事させられていました。
そういう子どもたちを保護するため、というのが学校が作られた一つの理由です。
もう一つは、工場で働かせるための規格化された使いやすい労働者を大量に生産するためです。
学校では、様々な一般教養を学ぶことができますが、その中でも国数英理社が、家庭科や音楽、美術などの科目より重んじられるのはそのためでしょう。
生きるため、人生を味わうため、よりも労働者としての適性を上げるためにそのような科目が重視されているわけです。
学校というものが生まれた時代と今という時代を比較してみて下さい。
大量生産大量消費によって大量のモノが生み出され、今や世界はモノで満ち満ちています。
世界中が開発しつくされ、世界のどこにももうフロンティアはありません。
モノを所有することよりも、体験を重視するコト消費などという言葉も生まれました。
所有するということの価値がどんどん重んじられなくなってきているのです。
これだけ時代背景が変わったのだから、社会で生きていくために必要なものも変わっていくのが道理です。
工場で働くよい労働者を大量生産するために作られた学校、その枠組みも見直されるべき時に来ているはずです。
ただ、そのシステムに関わる利害関係者が多ければ多いほど、そのシステムは変化を嫌います。
だから学校というシステムが急に変わることは難しいでしょう。
期待できない変化を期待していてもしょうがありません。
もしどうしてもそこにいることが辛いのならば、避難すればいいのです。
死にたくなるほどつらいのならば、学校に行かなくてもいい。
私はそう考えます。
学校に行けない子どもたちは、そのことによって自尊心に大きな傷つきを抱えています。
これ以上無理をして、その自尊心の傷を広げるのが、その子の将来に資すると私には思えません。
学校で得られるものは、ほかの場所で代替することもできるのだから、まずはゆっくり休めばいいのです。
休んでいる子どもたちも、ずっとこのままでいいなどとは絶対に思っておりません。
安心して休むことで心に力が蓄えられて、動けるようになる時が必ずきます。
だから今は安心して休めばいいのです。
学校に行かなくても人生の選択肢は狭まりません。
何も絶望することはありません。