先日、何気なくテレビを見ていたら、「マイケル・サンデルの白熱教室」が放送されていました。
この番組はハーバード大学の哲学者、マイケル・サンデル教授が、現代社会の諸問題について若者と話し合うという内容の番組です。
マイケル・サンデル教授が司会進行役を務め、若者たちの対話を促すという形式で番組は進行します。
参加者は、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、デンマーク、イタリアなどの国の若者たちです。
議題は「移民は受け入れるべきか否か」でした。
移民問題の話から、移民と難民は分けるべきか、先人が残した財産を受け継ぐ権利はあるか、愛国心は善か悪か、などなど話題はどんどん抽象度を上げていきました。
ここで交わされている会話は、「討論」ではなく「対話」であるということが、大切です。
二つの言葉の辞書的な意味は以下です。
討論・・・ある事柄について意見を出し合って議論を戦わせること
対話・・・向かい合って話し合うこと。またその話。
討論とは、意見を出し合って、どちらの意見が正しいかを決すること、相手の意見を論破することを目的になされます。
だから、討論のプロセスで参加者が自分の意見を変えるということはあってはならないのです。
なぜならそれは討論における敗北を意味するからです。
それでは対話はどうでしょうか?
私の考える対話の意味は辞書とは違います。
対話とは、言葉のやり取りを通じて、自分の意見でもなく、相手の意見でもなく、お互いの意見を融合させたよりよい意見を生み出すプロセスのことです。
正しい答えがはじめからそこにあるのではなく、会話を通じて参加者が議題に対して理解を深め、変容していくというプロセスがある、それが対話です。
そこでは対話する相手は敵ではありません。より高次の解を見出すために協力し合う仲間です。
長らく機能し続けてきたグローバリズムが行き詰まりを向かえ、一体なにが正解なのかわかりづらくなっている今という時代に必要なのは、討論ではなく、対話だと私は考えます。
誰もこれが正解などと言い切ることが難しい時代ならば、三人寄れば文殊の知恵ではないですが、人知を集めてよりよい意見を探し出す対話というプロセスが必要なのです。
私はこの番組を見ながら、「果たしてここに日本人は混ざることができるだろうか?」と考えました。
国会のやり取りを見ていてもわかる通り、日本人は討論はできても対話するということが苦手です。
人類は討論を通じてではなく、弁証法的対話を通じて進歩を果たしてきましたが、日本にはそういう習慣が根付いていません。
それは地理的条件、歴史的背景から考えてもしょうがないことなのかもしれません。
歴史を振り返ったときに、その地理的条件から自分たちとは異なる他者との遭遇を避けることができなかった国々であればこそ、
戦いを避けるために対話するという習慣が根付き、それを通じて自国の文化をより汎用的な文明にまで高めることができるのだろうと思います。
だから対話という習慣のある国が世界のルールを作り強い影響力を行使する事ができるのでしょう。
閉塞感漂う時代であればこそ、対話が必要なはずなのに、その習慣が根付いていない日本。
それはなぜなのか、そしてどうすればいいのか?
考えてみたいと思います。
続きます。