昨日のブログでは、中学生くらいから学ぶことが嫌いになる傾向がみられること、「勉強したくない」という子どもに褒める、叱るなどの外圧で対応しても、効果は一時的でしかないこと、を綴りました。
今日は、小学生くらいまでは学ぶことに喜びを感じる子がいるのに、中学生くらいから学ぶことが嫌いになる子が増えるのはなぜか?
その理由を考えてみたいと思います。
学ぶ動機にはいくつかの種類があります。
例えば以下のようなものです。
・出来なかったことが出来るようになる喜びがあるから
・他者から良い評価を得るため、悪い評価を得ないため
・今まで気づけなかった何かに気づける喜びがあるから
・学んだことを通して他者に貢献できる喜びがあるから
小さな子どもがまず感じる学ぶ喜び、それは出来なかったことが出来るようになる喜びです。
例えば、一人で靴が履けるようになった、自転車に乗れるようになった、自分の名前を書けるようになったなど、大人がやっていることと同じことができるようになる喜びです。
これは出来ることが増えてきて、大人のふるまいに近づけば近づくほど、感じづらくなる喜びです。
これを動機に学び続けられるのは、あくまで私の感覚ですが、小学生くらいまででしょうか?
この動機づけで学ばなくなると、多くの大人が使う手段が、昨日も書いたアメとムチ、褒めると叱るなどの評価・承認という動機付けです。
これは昨日書いた通り長続きしないため、自発的に学び続ける人間、大人になっても学び続ける人間になることはないでしょう。
多くの大人が、学生時代が終わるとともに学ばなくなるのは、これ以外の動機づけかがあることを自分自身が体験していないからです。
ビジネス書を手に取り、学んでいる人もいるにはいますが、多くは仕事を通じて評価・承認を得るためであり、学ぶこと自体が喜びという人はそう多くはないでしょう。
次の動機づけ、「気づく喜び」について考えてみましょう。
頭の中の既知情報と既知情報がつながり合って、「ああ、そうか!」とひらめく。
そういう経験はありませんか?
その感覚が「気づき」です。
「気づき」は心理学の用語では「アハ体験」と呼ばれていますが、今まで脳内に散在していた既知情報と既知情報がつながることで脳のネットワークが変化するとき、人間は大きな喜びを感じるのだそうです。
アルキメデスが風呂に入りながら浮力の原理を思いつて、喜びのあまり「分かった、分かった!」と叫びながら裸で街中を走り回ったという逸話がありますが、あれも「アハ体験」だったのでしょう。
「出来なかったことが出来るようになる」や「評価と承認」の動機づけでは動かなくなった、中学生以降の子どもたちが学び続けるために、私はこの動機づけが必要だと考えています。
そして学ぶことで「気づく喜び」を感じ、学び続けた先にあるのがより高次の喜び、他者貢献です。
心理学者のアドラーも人が幸福に生きるためには、他者貢献感が必要と述べていますが、自分が学んできたことを通じて他者に貢献できること、これがさらなる学びを動機づけていくのです。
学びを動機づけるものについて詳しく見てきましたが、それではそのような学びを経験するために何が必要なのか?
次回はそんなことを綴りたいと思います。
続きます。