人間的成熟とは葛藤を通じて果たされるもの。
それは日々の学習においても同じ。
解き方や答えを教えるよりも、気づきを促すような時間を持つことが大切。
そのような内容を綴っておりました。
人間が成熟を果たすためには、葛藤することが大切であるのに、いつからか世の中から葛藤が排除されるようになりました。
一体何がそうさせているのでしょうか?
グローバリズム、資本主義という価値観が蔓延している世の中では、効率的であること、スピーディーであることが、過剰に重視されています。
そんな価値観が支配する世の中では、常に何かをしていることが素晴らしく、ボーっとしていること、待っていることは、無駄であるとみなされます。
葛藤とは、複数の相容れない考え方の中で揺れ動き、そのすべてを矛盾なく包含する一段視点の高い解を見つけるというプロセスです。
その時間は、立ち止まり無為に過ごしているように見えますが、その中で、人間は思慮を重ね成熟していくのです。
時代を支配する浅薄で狭量な価値観が、その大切な時間を子どもたちから奪っている。
もう一歩踏み込んで言えば、その価値観に支配されている私たち大人が、子どもを待てなくなっている。
それが葛藤が排除された一因だと私は考えます。
家族、地域などの共同体の崩壊も、原因の一つです。
三世代同居の家族であれば、子どもたちは、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、四人の大人に触れて育つことができます。
祭りや農作業などの地域の活動が活発であった頃は、家族以外の大人に触れる機会もたくさんありました。
祖父母、両親、地域の大人、学校の先生、様々な大人に触れる中で、子どもたちはそれぞれの大人が、それぞれに違う価値観を持って生きていることに気づきます。
その価値観のズレが大切なのです。
父ちゃんはこう言うけど、学校の先生はああ言っていた。
近所のおじさんはこう言っていたけど、母ちゃんはこう言っていた。
様々な大人の価値観のずれの中で、子どもは揺れ動き、葛藤し、自分なりの納得解を見出して成長していくのです。
そういう人を成熟に導くシステム自体が、もう崩壊寸前になっているのが今の日本です。
お子さんの不登校に悩まれる親御さんは「私が悪かったから、、、。」とご自身を責められる方が多いです。
でも本当にそうなのでしょうか?
上に挙げた理由のように、今の世の中は、人を葛藤させ成熟に導くというプロセスが排除されている世の中です。
そして成熟のプロセスを踏めず子どもたちが躓けば、まず責められるのは、子どもたちと接する時間の長い親御さんや学校の先生です。
私はそれは違うと考えます。私は不登校が、誰か一人の原因であるとは考えません。
時代を支配する価値観に、もっと言えばその価値観に同意署名しながら生きている自分を含めた大人一人一人に、少しずつ責任があるのではないかと考えています。
子どもたちが不登校という形で投げかけてくるメッセージに私たち大人はどう応えていけばいいのでしょうか?
変わるべきは子どもではなく、大人。
私はそう考えます。