=神様は世間様=
「世間様に顔向けができない」
「世間体が悪い」
「世間がうるさい」
日本語には「世間」を気にするたくさんの言い回しがあります。
また精神疾患に「対人恐怖症」というものがあります。
対人恐怖症・・・恐怖症の一。人と会うのがこわいという強迫観念のある神経症。(大辞泉より)
この対人恐怖症は日本に多い精神疾患であることが知られています。
英語でもTaijinkyofushoと表記されるそうです。
その昔の村落共同体では、「村八分」という習慣がありました。
村落共同体の掟に背いたものは、火事の消化活動と葬式以外の交流を一切絶たれたと言われています。
私も子どものころに、山の中の小さな村で育ちましたので、このような田舎独特の排外的な雰囲気、同調圧力の強さは良くわかります。
このような例から、今も昔も日本人は世間というものを強く意識していることが分かります。
生活に根差した強い宗教を持つ国の人々が、自分の中の神と対話することで、個を確立し不確かな「自分」という存在を支えていると書いてきました。
日本人には、そのような生活に強く根差した宗教というものはありません。
それでは、一体日本人は何によって自分という存在を支えてきたのか?
私は世間の中で、立場を演じることで、求められる役割に自分を当てはめることで、この不確かな存在の自分に確かさを見出してきたのではないかと考えます。
勝ち目が無いと分かっている戦争に突き進みあそこまでひどい負け方をしてしまったのも、その後国を挙げて復興に取り組み、世界第2位の経済大国にまでなったのも、この日本人の立場主義故ではないでしょうか。
しかし、今その世間的な立場で自分を支えるというやり方がうまく機能しなくなっているのではないでしょうか?
次回に続きます。