生きづらさを抱える人が増えているという話を綴っておりました。
前回のブログでは、自分の意志で人生を切り開いて行かねばならない人間は自由の刑に処せられている存在。
自由であることの孤独感、不安感と折り合いをつけるために、人は信仰を持ち、自分を保っているのではないか。
しかし、日本のように生活に強く根差した宗教を持たない国の人は、違う形で自分という人間を支えているのではないか?
そのような話を綴っておりました。
日本人はどのような仕方で、自分自身の存在に確かさを抱き生きているのか、考えてみたいと思います。
=「個人」は輸入品=
言葉と概念は同時に生まれます。
初めからある概念がこの世に存在し、それに後から誰かが名前を付けるわけではありません。
名付けられた瞬間、ある概念がこの世界に生起して、人間がそれを認識できるようになる。
だから言葉と概念は同時に生まれる訳です。
例えば、最近私が認知できるようになった概念に「レジリエンス」というものがあります。
レジリエンス。
ストレスにさらされた状態から回復する能力のことで、スポーツや心理学の分野で使われる言葉だそうです。
この言葉を知ったことで、この人はレジリエンスの高い人だなぁ、自分のレジリエンスは一体どれくらいだろう、などとその概念を認識できるようになる訳です。
このように言葉を概念は同時に生まれ、言葉を知ることによって、人はそれをそれとして認識できるようになるのです。
前回に続き「生きづらさ」というものについて考えておりました。
日本には、江戸時代まで「個人」という言葉は存在しなかったそうです。
「個人」という言葉が使われるようになったのは、明治時代に入ってからということが知られています。
要するに、その時まで日本には「社会集団」に対立する「個人」という概念が存在しなかったことが分かります。
今では当たり前に使われている「個人」という概念さえ、明治時代に欧米から輸入された考えだったのです。
だから日本人は前回の記事で書いたように、「個」を確立するという生き方に不慣れなお国柄なのだと思います。
つまり、日本人は、生活に根差した強い宗教を持つ国の人々のように、一人の人間として神と対話し、個を確立していくという、自分の支え方をしてこなかったのではないでしょうか。
それでは、日本人は一体どのようにして、自分自身を支えてきたのでしょうか?
次回に続きます。