=人間は自由の刑に処せられている=
「自由」という言葉にどんなイメージを抱きますか?
私たちが「自由」について考えるとき、無意識的にそれは素晴らしいもの、と考えるのではないでしょうか。
「人間は自由の刑に処せられている」
哲学者、ジャン・ポール・サルトルの言葉です。
人間は、自分の意志とは無関係にこの世の中に放り出されるにも関わらず、どのように生きていくべきかを自分の意志で決めていかなければならない。
そういう意味で人間とは、不安と孤独そして責任が伴う自由の刑に処せられているようなものだ、とサルトルは論じています。
また「自由からの逃走」という著書の中で、エーリッヒ・フロムは以下のように述べています。
「人間は孤立することをもっとも恐れている。
人間は意識の上では、自らの意志によって動いていると信じ、自らの意志で積極的自由を求めているものと信じている。
だが人間は、自由になればなるほど、心の底では耐えがたい孤独感や無力感に脅かされることになる。
そして孤立することの絶望的な恐怖から逃れるために、退行的な逃避のメカニズムが働き、積極的な自由を求めることより、自由から逃れることを人間は選択するのである。」
何物にもとらわれることなく自由であることは、その代償として、大きな孤独と不安を人にもたらす。
だから人は、意識の上では自由を求めているけれど、無意識的には自由を恐れ逃避しようとする。
フロムはそう述べています。
話は変わって、私は先日りゅーとぴあでダンスカンパニーノイズムの金森穣さんと、脳科学者茂木健一郎の対談を拝聴してきました。
その中で心に残った金森さんの言葉がありました。
対談の中で、信仰心に関する話になったとき、茂木さんから何か強く信じるものはあるのかと尋ねられた金森さんは、
特定の宗教に対する信仰心は無いけれど、自分の中に強く信じる何かが無ければ、多くの人を巻き込んで表現活動をすることは出来ない。
という趣旨の事柄を述べておりました。
信仰:神仏などを信じてあがめること。特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。(大辞泉より)
何かを強く信じる気持ちというのは、人が生身の自分としてこの世に生きるとき、心の拠り所となり得る大きな存在だと思います。
例えば欧米やイスラム圏には、人々の生活に深く強く根ざした宗教があります。
そして折に触れて、自分の心の中の神と対話する、という形で人生の選択をし、自由であることの孤独や不安と折り合いをつけ、生きているのだと思います。
また金森さんは、ダンスの勉強のためにスイスに留学されているのですが、留学先のダンスの先生から事あるごとに「君はどう思う?」と個人の考えを尋ねられるのが最初は苦しかったとも語っていました。
日本では、個人としてどう考えるか、よりも全体としてパフォーマンスが上がるか否かが重視される傾向があるため、個人の意見を持つということに不慣れな人が多いのでしょう。
それとは対象的に強い信仰の対象を持つ国々の人たちは、常日頃から宗教的な信仰の対象に身を委ね、対話を重ねることで、自分の中に確固たる個を育んでいるからこそ、一人一人が自分の考えを持って生きるということが自然に身についているのだと思います。
さて、自由であることは必ずしも良いことばかりでは無く、不安感や孤独感に苛まれることもある、という話をしている途中でした。
自由であることの不安や孤独と折り合いをつけて生きるために、心の中に信仰の対象を持ち個を確立して生きる。
生活に根ざした強い宗教を持つ国々の人々はそういう生存戦略をとっているのかも知れません。
翻って日本人はどうでしょうか?
私は、日本人は信仰の対象と対話し自分の中に個を育てる、という形ではなく別の形で自分という人間を支えているように感じます。
次回に続きます。