=受容と厳しさ=
近頃、万能幻想を断念できぬまま大人になった人が増えているのではないか?
そんな問題提起から、母性の役割、父性の役割について考えてきました。
日本は、自然環境も宗教観も、人間にひとつのルールを突き付けてくるという厳然としたものではなく、人間に恩恵を与え、受容するという色合いの強いものでした。
そういう母性的バックグラウンドがあるからこそ、優しさ=受け止めること、包み込むことという考えになる傾向があるのだと思います。
私は、優しさとは、受け止めること、包み込むことだけでは機能不全に陥る可能性があると考えます。
優しさは、母性的優しさ、父性的優しさの両方があり、受容すること、包摂することだけでは、機能しないと考えます。
お子さんが不登校になったときに、「受け止めてあげてください」とはよく言われることです。
確かにその通りだと思います。
しかしそれだけではダメです。
子どもが、自分自身を害するようなこと、他者を害するようなこと、社会のルールを犯すようなこと、をしているならば、「ダメなものはダメだ」と力ずくでも止めてあげること。
それも優しさではないでしょうか?
「受け止めてあげること、包み込んであげることが優しさ」の裏には落とし穴があるように思います。
それは厳しいことを言ってこの人に嫌われたらどうしよう、という嫌悪されることに対する恐怖です。
その嫌悪恐怖を優しさであると、自分が自分に対して嘘をつく時、ありませんか?
私はあります。
それはよくよく考えてみれば、相手のことなど全く考えていないのですから、優しさではなく、エゴでしかないでしょう。
母性的優しさのように見えて、実は自己保身でしかない、そういう落とし穴があると感じます。
父性的優しさとは、まだ視点の低い子どもには理解されない場合が多いと思います。
でも大人になって、あの時あのように接してもらえて良かったときっと感謝される時が来ます。
「ダメなものはダメ」
そう子どもに告げられないのは、優しさなどではなく、大人の弱さなのだと思います。
それは大人が子どもを支えるのではなく、大人が子どもに寄りかかっているとも言えるでしょう。
子どもからの評価、他者からの評価に依拠して生きる弱さを克服し、大人が自分に寄って立つ生き方をしなければ、父性的優しさを発揮することはできないでしょう。
私は常々思っていることがあります。
大人が大人になった分だけ、子どもも大人になっていく、ということです。
優しさとは、受容と厳しさがあって初めて機能するものです。
優しさを発揮するために問われているのは、大人が大人になることではないでしょうか?
そしてこの問いかけは、そっくりそのまま私自身に向けられるものでもあるのです。